269-040_多久神社(京丹後市峰山町)

比定社:多久神社(京丹後市峰山町)

式内社コード:269-040
神名帳社名 :多久神社、タクノ
社    格:小
所 在 地 :627-0011 京都府京丹後市峰山町丹波2
Plus Code  :J3PH+5Q 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「たくじんじゃ」と読む、地名の丹波は「たんば」と読む。
丹波集落の東端の山裾に鎮座。
国道482号線に面しているので非常に分かりやすい場所にある。
神社前に広い駐車スペースがある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

カチッとした印象の京都府登録文化財の本殿。

写真

多久神社を正面より望む。右側の道路は国道482号線で分かりやすい場所にある。この方向は北、弥栄方面。神社前に駐車スペースがある。
多久神社を正面より望む。右側の道路は国道482号線で分かりやすい場所にある。この方向は北、弥栄方面。神社前に駐車スペースがある。
南側を望む。この方向は国道482号線の峰山方面。
南側を望む。この方向は国道482号線の峰山方面。
一の鳥居脇に立つ社標。勅令、公饌、供進、式内とある。全部書いちゃったという感じ。
一の鳥居脇に立つ社標。勅令、公饌、供進、式内とある。全部書いちゃったという感じ。
京都府教育委員会謹製の由緒書。祭神は豊宇賀能咩命、明治期まで天酒大明神と呼ばれていたとある。
京都府教育委員会謹製の由緒書。祭神は豊宇賀能咩命、明治期まで天酒大明神と呼ばれていたとある。
手水舎。注連縄がワイルド。
手水舎。注連縄がワイルド。
神社謹製の由緒書。丹波、荒山、内記、矢田の総鎮守、元は神座尾にあったが嘉吉年間(1441~1444)に当地に遷座とある。
神社謹製の由緒書。丹波、荒山、内記、矢田の総鎮守、元は神座尾にあったが嘉吉年間(1441~1444)に当地に遷座とある。
一の鳥居をくぐるとすぐに二の鳥居がある。
一の鳥居をくぐるとすぐに二の鳥居がある。
参道の階段を登ると少し左に曲がり山門がある。
参道の階段を登ると少し左に曲がり山門がある。
なかなかに立派な山門。
なかなかに立派な山門。
山門より拝殿を望む。
山門より拝殿を望む。
拝殿と覆屋に入った本殿を望む。覆屋は脇から内部へ入れるタイプ。文化11年(1814年)に再建、その後昭和2年(1927)の大雪と北丹後地震で被害を受けたが修復されたとある。
拝殿と覆屋に入った本殿を望む。覆屋は脇から内部へ入れるタイプ。文化11年(1814年)に再建、その後昭和2年(1927)の大雪と北丹後地震で被害を受けたが修復されたとある。
本殿を右側より望む。文化年間に吉岡嘉平治により作られたとある。
本殿を右側より望む。文化年間に吉岡嘉平治により作られたとある。
本殿を左側より望む。彫り物と組物がが豪華、状態も良いようだ。
本殿を左側より望む。彫り物と組物がが豪華、状態も良いようだ。
本殿より拝殿越しに山門を望む。きれいに整理されているのが分かる。
本殿より拝殿越しに山門を望む。きれいに整理されているのが分かる。
拝殿前の石灯籠には享保年間(1716~1736)とある。
拝殿前の石灯籠には享保年間(1716~1736)とある。
手水鉢には嘉永年間とある。
手水鉢には嘉永年間(1848~1854)とある。
山門より二の鳥居を望む。右へ曲がっているのが分かる。本来は真っ直ぐだったのだろう。
山門より二の鳥居を望む。右へ曲がっているのが分かる。本来は真っ直ぐだったのだろう。
二の鳥居より一の鳥居を望む。
二の鳥居より一の鳥居を望む。

感想

神社謹製の由緒書によると

多久神社略記(訳文)
祭神 豊宇賀能咩命(とようかのめのみこと)
鎮座年記 不詳
例祭 十月八日
 延喜式(九二七年制定)式内社の小社です。眞井(まない)伝説による天女を祭神としています。天女は豊受大神(伊勢神宮の豊受大神宮に祀られる穀物女神)の化身で、当地に天下り農業を興されました。社記によると「(植えたその)秋に稲の穂が垂れてたわわに実った様を見られて狼は大変お喜びになり、『ああ嬉しい!まことに立派に実った田庭だね云々』と申された。丹波の地名はここから発し、このことを以て祭神をお祀りする」といわれております。
 又、丹後古風土記逸文に「天女よく酒を噛み造り、その酒を一杯飲めばすべての病が治る」といわれ、「その酒を村人に分け与えると皆が吉凶の恵みとおかげを授かる」といわれています。このことが後世に天酒大明神(あまさかだいみょうじん)と崇められているゆえんんであり、天酒祭りは前述の言い伝えに由来するものです。そこで社記に「いつも祭に酒を置いて延喜を祝う云々」と伝わっています。
 このおみやは、丹波、荒山、内記、矢田の総鎮守でお待ち理には神輿練込の神事がありましたが寛永年中(一六二四年頃)に無くなりました。当時の御旅所が、昔の盛んであった神事の後を残しています。
 藩主の京極様は代々このお宮にいつも崇敬の念をもたれ、寄進は数度に亘ってございました。
 昔から、多くの人々の口に、もてはやされている里唄に「矢田や丹波の郷の天酒さまのお下通るもありがたい」と謡われています。おそらく神徳を崇め讃えてのことでしょう。
 この社は、元天女が鎮座されていた神座尾(かんざのお、笠の尾)にありましたが嘉吉年間(一四四一年頃)に現在の神山に遷座しました。現在の本殿は、この地方の名匠吉岡嘉平治の作で、明治六年二月十日に村社に列格されました。
紀元二千六百年(一九四〇年)春祭日掲之
 平成二十年(二〇〇八年)十月吉日作成

とある

京都府教育委員会謹製の由緒書によると

多久神社は峰山町丹波小字湧田山に鎮座する。祭神である豊宇賀能咩命(とようがのめのみこと)は『丹後国風土記』にいう比治山(ひじやま)の天女とされ、万病を治す酒をつくったことから、明治期まで天酒大明神(あまさかだいみょうじん)とも称した。
 当社の祭礼で行われる神事芸能の芝むくり(ちゃあ)は、京都府無形民俗文化財に登録されている。境内は南西から北東にかけて広がり、石段を上がった高台に神饌所兼神輿庫、拝殿、本殿覆屋及び境内社が建ち並ぶ。
 現在の本殿は文化八年(一八一一)に火災に遭った後再建されたと伝わり、文化一一年(一八一四)には完成したことが擬宝珠銘より判明する。一間社隅木入春日造、こけら葺き、建物を彫刻で飾り、軒桁を持ち出して屋根を大きく見せ、正面に唐破風を付ける。大工は丹後を中心に活躍した吉岡嘉平、また細部を飾る彫刻が優れている神社本殿遺構として重要であり、京都府登録文化財に登録されている。
 本殿背後には、全長一〇〇メートルに及ぶ前方後円墳を盟主として約四〇基の古墳が集中しており、うち一号墳から四号墳が京都府史跡「湧田山古墳群」に指定されている。
 山腹に鎮座する多久神社の社叢と背後に広がる森林約一.七六ヘクタールは、芝むくりが奉納される本殿を中心に、それらを取り囲む杜が歴史的景観を形成し、また約四〇基の古墳が集中する貴重な保全すべき地域であるとして、京都府文化財環境保全地区に決定されている。

丹波の芝むくり
 芝むくりは『丹後資料叢書』所収の文化一三年(一八一六)録の丹後峰山領「風俗問状」にも記述されている丹波地区の氏神多久神社の秋祭り(十月)の祭礼(神興祭)に行われる由緒ある神事芸能である。
 先導一人、太鼓打六人、猿役二人の構成で巡航する神輿に先行し、所定の要所で演じられる。組み合って連続回転技をみせたりする猿役の延喜が印象的である。その際かけられる「ちゃあ」という掛声によって芝むくりは「ちゃあ」ともよばれている。
 丹後に広く流布した、笹ばやしの一つであるが、笹ばやしに伴った棒降芸(ぼうふりげい)が得意な展開をみせたものであり、民俗芸能として貴重である。
京丹後市教育委員会

とある

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、豊宇賀能咩命。

嘉吉3年(1443年)奥地より現在地に遷座。
文化8年(1811年)出火で社殿全焼。
文化11年(1814年)再建(修正)。
明治6年(1873年)村社。
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進指定。
昭和2年(1927年)大雪と震災で大破。

元の鎮座地は現社域西約四丁の山間の奥地。
江戸時代は「天酒大明神」と称していた

崇神天皇の朝、丹波郷の奥地にある池に天酒神が天降り、その地に創祀されたという。
この神は崇神朝39年に豊受大神の現身として丹波奇靈里比沼麻奈爲に天降られたと古事記にある神と同一神である。
多久の旧鎭座地は神座の尾(現在は笠ノ尾)、池は七夕池として殘つている。
造酒・機織の祭神に、栲(タク)でつくつた織物を奉納したのが社名の起源という説がある。

とある。

当地は非常に興味深い地域だ。
当地の地名が丹波であること、当社の後方に湧田山古墳群(42基で丹後地域屈指の規模)があり当地は古代の丹波国(のち丹後)の中心地であったと思われる。
湧田山古墳群周辺は京都府文化財環境保全地区となっている。
また、大宮や峰山より弥栄への街道筋であり交通の要衝だったと思われる。

そんな重要な場所にある多久神社が大社になっていないことを考えると、当時は大宮売神社が強力すぎたのだろうか。
また、丹波郡の式内社は何らかの形で豊宇賀能咩命と関係があり(九座一神とも言われるようだ)、江戸時代までは天酒大明神と呼ばれていた神社が複数ある。
それだけ酒作りが盛んだったのだろうか、この地域の酒作りを独占するネットワークがあったのかもしれない(個人的見解です)。
かつて、竹野川の東岸の内記の字西尾(または西野)という場所に、天女で天酒大明神である豊宇賀能売命を祀る名木、波弥、多久、矢田、撥枳の五社の神輿が同じ日に、この場所に集まって祭礼を行なったとある。

創建は不明、ご祭神は豊宇賀能咩命、当社も江戸時代までは天酒大明神と呼ばれていた。
元々は神座尾(かんざのお)という場所に鎮座していたが、嘉吉年間(1441~1444年)に現在地に遷座。
その後、文化8年(1811年)に焼失、文化11年(1814年)再建、昭和2年(1927)の大雪と北丹後地震で被害を受けたが修復されたようだ。

多久神社へのアプローチは非常に簡単、国道482号線のすぐ西側に鳥居や社標があるのですぐに分かる。
ありがたいことに鳥居前に広い駐車スペースがある。

一の鳥居をくぐると手水舎があり、すぐに二の鳥居がある。
二の鳥居をくぐると短い石段を2つ登れば山門の前に出る。
想像するに山門より下の参道は真っ直ぐだったのだろう、山門より上には古い石灯籠や手水鉢等が残っている(江戸時代のもの)。
社域は国道482号線で削られたのではないだろうか、山門の下あたりで曲がっているのが不自然だ。

山門をくぐれば社殿がある。
社殿のある場所は広くはないが、すぐ後方に古墳群があるようで古くから開けた場所であることが分かる。
社殿は拝殿と覆屋に入った本殿があり、拝殿と覆屋は一体化している。
拝殿・本殿共に文化11年(1814年)の建築だと思われるが状態は非常に良い。
社殿は山門・拝殿・覆屋に入った本殿の構成、コンパクトで親しみの持てる作りとなっている。
本殿はカチッとした作りが印象的で非常に良い状態。
大変綺麗にしてあるので地域の尊崇が厚いことがよく分かり気持ち良く参拝できる。

元丹波というべき場所に鎮座する神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/5/5
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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