261-160_(論)伊達神社(亀岡市宇津根町)

比定社:(論)伊達神社(亀岡市宇津根町)

式内社コード:261-160
神名帳社名 :伊達神社、イタテノ/イタチ
社    格:小
所 在 地 :621-0801 京都府亀岡市宇津根町東浦1-2
Plus Code  :2HFC+29 亀岡市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

JR亀岡駅の北西の線路沿い宇津根町の集落に鎮座。
かつてはお隣の宝蔵寺の境内社だったようだが明治期に分離された。
社域は広くはない、覆屋に入った本殿のみの構成となっている。
駐車場はないので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

移転の影響だろうか、少々無理のある社殿の配置。

写真

伊達神社の入口を望む。かつては左側(北)の宝蔵寺の境内社だったようだが明治期に分離された。
伊達神社の入口を望む。かつては左側(北)の宝蔵寺の境内社だったようだが明治期に分離された。
社標には延喜式内とある。
社標には延喜式内とある。
鳥居をくぐって左手にある手水舎。手水鉢には水盤とあり井戸のポンプが付いている。
鳥居をくぐって左手にある手水舎。手水鉢には水盤とあり井戸のポンプが付いている。
本殿は南を向いており参道は左へ曲がっている。少し無理のある配置。
本殿は南を向いており参道は左へ曲がっている。少し無理のある配置。
二の鳥居と本殿を望む。覆屋は大きくて立派。最近手入れされていないように見える。
二の鳥居と本殿を望む。覆屋は大きくて立派。最近手入れされていないように見える。
覆屋はちょっと不思議な作りをしている。
覆屋はちょっと不思議な作りをしている。
覆屋の中の本殿は小ぶりでシンプルな形状。物悲しい感じ。
覆屋の中の本殿は小ぶりでシンプルな形状。物悲しい感じ。
本殿の大きさに比較して覆屋が非常に大きいことが分かる。配置といい作りといい少し不思議な印象を受ける。明治期の神仏分離令の影響で慌てて作ったのだろうか。
本殿の大きさに比較して覆屋が非常に大きいことが分かる。配置といい作りといい少し不思議な印象を受ける。明治期の神仏分離令の影響で慌てて作ったのだろうか。
たぶん狛犬の台だろうと思われる石。
たぶん狛犬の台だろうと思われる石。
神社謹製の由緒書。亀岡は統一形式のようだ。
神社謹製の由緒書。亀岡は統一形式のようだ。

感想

神社謹製の由緒書によると

伊達神社
 当社は平安時代中期に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。延享四年(一七四七)の大堰川の氾濫により、隣接の宝蔵寺とともに流出し、記録類も失われました。
 祭神は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)の御子の五十猛命(いそたけるのみこと)で、「杉、檜、楠」など八十木種を播き育てた植林の神です。
 現在、宝蔵寺に接していますが、江戸時代には、宝蔵寺の境内社で、明治の神仏分離に際し現在地に移転しました。
 本殿は、切石積基壇の上に土台をすえて立つ小型の一間社流造です。その基壇には「寛政元酉年再建」の刻銘があり、寛政元年(一七八九)の造営であることがうかがえます。
 造りは、繊細で細部まで手が込んでおり、境内社としてはかなり立派なもので、江戸期の寺院鎮守社にふさわしい本殿です。

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。
由緒不詳。
延享4年(1747年)大堰川の氾濫で流出。
寛政元年(1789年)造営。

大堰川の氾濫より前の記録や由緒が全く分からない神社。

二の鳥居には安政年間とあり、明治期に鳥居ごと移ってきたのだろうか。
とすれば境内社とは言えかなり立派なお社だったことが想像できる。

残念なのは街中ではあるが氏子が少なくなり維持できなくなっていること。
見たところ手入れがなされず朽ちていくのを待っているような印象で寂しい。
いつも思うのだがこうした神社を救う手立てがないものだろうか。

注意点

駐車場はないので注意。

訪問ノート

訪問日:2019/5/18
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3