268-220_(論)吾野神社

比定社:(論)吾野神社、加悦天満宮境内社

式内社コード:268-220
神名帳社名 :吾野神社、ワカノノ
社    格:小
所 在 地 :629-2403 京都府与謝郡与謝野町加悦50-1
Plus Code  :G32R+XJ 与謝野町、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「あがのじんじゃ」と読む、地名の加悦は「かや」と読む。
現在は加悦天満宮の境内社。
加悦集落の南の天神山頂上に鎮座。
加悦天満宮の本殿の後ろ側にある。
ちりめん街道沿いに鳥居があるので分かりやすい。
駐車場は無いので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩2】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

吾野神社と加悦天満宮の位置関係。

国指定重要伝統的建造物群保存地区

与謝野町加悦(神社とは直接関係は無いが地域が織物の町として指定されている)
製織町
文化庁解説:
保存地区は東西240m、南北630m、面積12.0haの範囲にあり、街道がクランク状に折れ曲がる城下町特有の地割をよく残している。近世から昭和初期に建てられた主屋や土蔵、縮緬工場などが一体となって丹後縮緬の製織町として特色ある歴史的風致を今日によく伝えている。

写真

加悦天満宮を正面より望む。吾野神社は境内社となっている。この鳥居は東を向いている。
加悦天満宮を正面より望む。吾野神社は境内社となっている。この鳥居は東を向いている。
右側(北)を望む。この道は「ちりめん街道」。周辺は加悦集落で人家が多い。
右側(北)を望む。この道は「ちりめん街道」。周辺は加悦集落で人家が多い。
左側(南)を望む。この道は「ちりめん街道」。雰囲気のある町並みが残っている。
左側(南)を望む。この道は「ちりめん街道」。雰囲気のある町並みが残っている。
氏子中謹製の加悦天満宮由緒書。本殿は享保一八年の建築、八角形石灯籠は鎌倉時代、ともに京都府指定有形文化財とある。
氏子中謹製の加悦天満宮由緒書。本殿は享保一八年の建築、八角形石灯籠は鎌倉時代、ともに京都府指定有形文化財とある。
左隣には宝巌寺がある。こんもりと茂った小高い丘になっているのがよく分かる。
左隣には宝巌寺がある。こんもりと茂った小高い丘になっているのがよく分かる。
鳥居脇にある一の手水舎。
鳥居脇にある一の手水舎。
鳥居には天満宮の扁額がかかる。天満宮らしく牛が鎮座する。右側は吉祥寺。長い階段を登るようになっている。
鳥居には天満宮の扁額がかかる。天満宮らしく牛が鎮座する。右側は吉祥寺。長い階段を登るようになっている。
長い階段の参道を登りきると広場に到着する。広場の右手には麿稲荷神社、その左に休憩所のような建物、左手正面に加悦天満宮の拝殿が見える。
長い階段の参道を登りきると広場に到着する。広場の右手には麿稲荷神社、その左に休憩所のような建物、左手正面に加悦天満宮の拝殿が見える。
休憩所のような建物。この左手に道路があり西側よりクルマで登ってくることが可能。
休憩所のような建物。この左手に道路があり西側よりクルマで登ってくることが可能。
休憩所に掲げられた「天神山の俯瞰図」。天満宮の左奥に階段がありその先に社があるのが吾野神社と思われる、表記がないのが不思議な感じ。この広場へのアプローチは登ってきた階段の他に右側(東)にも階段があることが分かる。
休憩所に掲げられた「天神山の俯瞰図」。天満宮の左奥に階段がありその先に社があるのが吾野神社と思われる、表記がないのが不思議な感じ。この広場へのアプローチは登ってきた階段の他に右側(東)にも階段があることが分かる。
加悦天満宮の拝殿を正面より望む。
加悦天満宮の拝殿を正面より望む。
加悦天満宮の拝殿前の左側に二の手水舎。左手にある垣で囲まれた石灯籠が鎌倉時代の八角形石灯籠、京都府指定有形文化財となっている。
加悦天満宮の拝殿前の左側に二の手水舎。左手にある垣で囲まれた石灯籠が鎌倉時代の八角形石灯籠、京都府指定有形文化財となっている。
加悦天満宮の拝殿を望む。扁額には天満宮とあり、内務大臣 床次竹二郎(とこなみたけじろう)と銘がある。大正時代の原内閣の時か。
加悦天満宮の拝殿を望む。扁額には天満宮とあり、内務大臣 床次竹二郎(とこなみたけじろう)と銘がある。大正時代の原内閣の時か。
加悦天満宮の拝殿をを右側より望む。非常に立派な本殿、享保一八年の建築で京都府指定有形文化財となっている。
加悦天満宮の拝殿をを右側より望む。非常に立派な本殿、享保一八年の建築で京都府指定有形文化財となっている。
加悦天満宮の本殿左側にさらに奥へ登る階段があり吾野神社へ通じている。ちらっと社殿の屋根が見えている。
加悦天満宮の本殿左側にさらに奥へ登る階段があり吾野神社へ通じている。ちらっと社殿の屋根が見えている。
階段を登っていくと吾野神社の社殿が見えてくる。
階段を登っていくと吾野神社の社殿が見えてくる。
吾野神社を正面より望む。左右に摂社末社があり俯瞰図の通りの配置になっている。
吾野神社を正面より望む。左右に摂社末社があり俯瞰図の通りの配置になっている。
吾野神社を正面より望む。鈴の上の彫刻の上になにか書いてあるが判読できない…。判読できないのでここが吾野神社であると確信が持てないが、たぶんそうだろう。
吾野神社を正面より望む。鈴の上の彫刻の上になにか書いてあるが判読できない…。判読できないのでここが吾野神社であると確信が持てないが、たぶんそうだろう。
吾野神社より加悦天満宮を望む。同じ方角を向いているのが分かる。社殿は北東を向いている、妙見信仰とか関係があるのだろうか。
吾野神社より加悦天満宮を望む。同じ方角を向いているのが分かる。社殿は北東を向いている、妙見信仰とか関係があるのだろうか。
加悦天満宮の拝殿より広場を望む。
加悦天満宮の拝殿より広場を望む。
広場より参道の階段を望む。祭の際にはこの階段を神輿が上り下りする。大変そうだ。
広場より参道の階段を望む。祭の際にはこの階段を神輿が上り下りする。大変そうだ。
参道の階段途中より鳥居を望む。加悦谷を西から一望できる場所。
参道の階段途中より鳥居を望む。加悦谷を西から一望できる場所。

感想

氏子中謹製の加悦天満宮由緒書によると

文道の太祖、風月の本主と仰がれる菅原道真公をお祀りしています
参道の石段一三七段は明治三十六年菅公一千年祭記念行事として再建されたものです。石段を登りつめると天満宮社殿があります。眼下には「ちりめん街道」、加悦谷平野を望むことができます
本殿は享保一八年(一七三三年)建立され当地方の社殿建築の特徴をよく表す物として京都府指定有形文化財となっています。併せて鎌倉時代の八角形石灯籠も京都府指定有形文化財となっています
天神山の頂上には吾野神社(あがの)があります。吾野姫命を祭神とする延喜式内社です
四月の最終土曜、日曜日には加悦谷祭りがおこなわれます。天満宮では、御輿の渡御(とぎょ)を中心に神楽、屋台、子供神輿が見られます。神輿が一三七段の石段を降り登る様は圧巻です
氏子中

とある

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、菅原道真(本社)。
由緒不詳。
当初鎮座の地、中郡二箇、のち与謝郡四辻天神河原に移る。
嘉暦4年(1329年)加悦町宮野に移る。
天正14年(1586年)現在の地に遷座。

とある。

延喜式神名帳の丹後国・与謝郡の「吾野神社」の論社2社のひとつ、もうひとつの論社は須津彦神社となる。

当地は加悦谷の中程にあり、南北は加悦谷沿いに街道が走る、東には大江への街道、西には但東への街道が交わる交通の要衝でもある。
また、吾野神社のご祭神は、我野廼姫命(かやのひめのみこと)で地名の加悦(かや)の元になったとも言われている。
かつてはこの辺りが加悦谷の中心地だったのではないだろうか(個人的見解です)。
吾野神社が鎮座している標高50メートルほどの山は天神山と呼ばれている。
天神山の周辺には多数の社寺が存在する不思議な場所。
天神山を中心とした300メートル四方に吾野神社、加悦天満宮、東側に宝巌寺、吉祥寺、北側に実相寺、妙見堂、南側に西光寺と7箇所もある。
天神山周辺は弥生期から古墳期の古墳があるらしい。
これは天神山がなにか重要な役割を果たしていたのではないかと思われる。

地名の加悦(かや)だが、かつては賀悦、加屋、加屋という表記であったという。
加悦という漢字になったのは江戸時代のようだ、意外と新しいことにビックリする。

現在の吾野神社は加悦天満宮の境内社ということになっている。
加悦天満宮は、元々あった吾野神社の社域に天正14年(1586年)に遷座している。
時々あることだが、現在は主客が逆転している。

吾野神社へのアプローチは、「ちりめん街道」沿いに加悦天満宮の鳥居があり、すぐ南に宝巌寺があるので分かりやすい。
宝巌寺のある東側からは鳥居をくぐると長い石段が一直線に伸びていて妙に気持ち良い。
石段を登りきると頂上はほぼ平坦になっている(この山は天神山と呼ばれている)。
天神山へは東側より登る参道もあるようだ。

不思議なことに加悦天満宮の境内図(天神山の俯瞰図)には吾野神社の絵はあるが記載がない。
想像するに江戸期の為政者による加悦天満宮の庇護が強すぎて吾野神社の存在が薄れてしまったということなのではないだろうか。
吾野神社も主客が逆転した神社と言えよう。
後から鎮座した神社と神様が厚く庇護されて元の神社の存在感が薄れてしまっている。

吾野神社の社殿は加悦天満宮の本殿左側よりさらに山へ登るようになっていて、頂上と思われる場所に木々に囲まれて鎮座している。
吾野神社の社殿にはうっすらとなにか書いてあるのが分かるのだが残念なことに読めない。
吾野神社の社殿自体は北東を向いており、根拠はないが妙見信仰を連想する。

加悦天満宮は天正14年(1586年)に現在地に遷座したと伝えられている。
であるならば、鎌倉時代の八角形石灯籠は吾野神社の石灯籠ということになる。

与謝野町春の例祭として加悦谷祭が開催されている。
加悦谷全体を巻き込んでの祭りの行事で、多数の神社が参加している、素晴らしいことだ。
加悦区・算所区では加悦天満宮が参加し、祭りの説明書きには次のようにある。
”神輿・二頭舞の神楽・3台の芸屋台が地区内を巡行します。芸屋台では、祭囃子が賑やかに演奏され、下之町の稲荷山では子ども芸屋台が数年に1度巡行します。”
物理的な社域・社殿もそうだが、こうした無形の文化面の継承も長く続けてほしいと思う。

吾野神社は加悦天満宮とともに加悦谷の祭も盛大に行われ地域の厚い崇敬を受けていることは間違いない。

加悦の地名のもとになったと思われる重要な神社。

注意点

駐車場は無いので注意。

訪問ノート

訪問日 :2020/11/14
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM