比定社:御形神社

式内社コード:313-020
神名帳社名 :御形神社、ミカタノ
社    格:小
所 在 地 :671-4112 兵庫県宍粟市一宮町森添280
Plus Code  :5JQH+QX 宍粟市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「みかたじんじゃ」と読む、地名の一宮町森添は「いちのみやちょうもりそえ」と読む。
揖保川の上流部の一宮町三方町集落の東の山裾に鎮座。
国道429号線の信号の無い三方町交差点に案内看板がある。
三方町交差点より北に入り揖保川を渡って集落に入り900メートルほどで右側(東)に公文川に掛かる橋の向こうに一の鳥居がある。
一の鳥居からは350メートルほどで二の鳥居、鳥居の手前にありがたいことに大きな駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

ご祭神が大国主神らしく西向きの社殿。
豊かな山裾の丘陵地帯に鎮座するところ。

国指定重要文化財(建造物)

御形神社本殿
時代:室町後期
年代:大永7
西暦:1527
文化庁解説:
 大永七年(一五二七)に建てられた三間社流造本殿である。中世神社建築の一例として重要である。

写真

御形神社へのアプローチを望む。公文川に掛かる橋を渡ってすぐのところ石標があるのですぐに分かる。まっすぐに伸びる参道が良い感じ。
御形神社へのアプローチを望む。公文川に掛かる橋を渡ってすぐのところ石標があるのですぐに分かる。まっすぐに伸びる参道が良い感じ。
参道を350メートルほど進むと鳥居がある。緑豊かな山裾の丘陵地に鎮座。
参道を350メートルほど進むと鳥居がある。緑豊かな山裾の丘陵地に鎮座。
鳥居の前右側にはありがたいことに大きな駐車場がある。
鳥居の前右側にはありがたいことに大きな駐車場がある。
駐車場の入り口よりやってきた参道を望む。
駐車場の入り口よりやってきた参道を望む。
鳥居をくぐると山門前。
鳥居をくぐると山門前。
山門前より右側を望む。トイレも完備。
山門前より右側を望む。トイレも完備。
山門前より左側を望む。集落へ通じる道がある。
山門前より左側を望む。集落へ通じる道がある。
手水舎。
手水舎。
山門を望む。奥にちらっと見えるのが拝殿。
山門を望む。奥にちらっと見えるのが拝殿。
神社謹製の真新しい由緒書。ご祭神は葦原志許男神を主祭神とし、右殿に月夜見神、天日槍神、左殿に高皇産霊神、須佐之男神をあわせて祀る、とある。
神社謹製の真新しい由緒書。ご祭神は葦原志許男神を主祭神とし、右殿に月夜見神、天日槍神、左殿に高皇産霊神、須佐之男神をあわせて祀る、とある。
山門前にある説明書き。右から左義長羽子板・巴御前勇戦図絵馬・百人一首図絵馬について書かれている。
山門前にある説明書き。右から左義長羽子板・巴御前勇戦図絵馬・百人一首図絵馬について書かれている。
山門をくぐると大きな絵馬が目に飛び込んでくる。
山門をくぐると大きな絵馬が目に飛び込んでくる。
舞台の背面に掲げられた大きな絵馬。
舞台の背面に掲げられた大きな絵馬。
左手には授与所。
左手には授与所。
さらに進むと拝殿前の広場。
さらに進むと拝殿前の広場。
右側には土俵・奥に摂社末社・舞台がある。ブルーシートが少々興ざめ。
右側には土俵・奥に摂社末社・舞台がある。ブルーシートが少々興ざめ。
左手には儀式殿。儀式殿の前には「ご神水と南天」がある。
左手には儀式殿。儀式殿の前には「ご神水と南天」がある。
拝殿を正面より望む。広場よりも少し高い場所にある。石段の左右にある石灯籠の上には鳩が乗っている。
拝殿を正面より望む。広場よりも少し高い場所にある。石段の左右にある石灯籠の上には鳩が乗っている。
鳩が乗った石灯籠。石灯籠に鳩が乗っているのは珍しい。
鳩が乗った石灯籠。石灯籠に鳩が乗っているのは珍しい。
広場より石段を上ると拝殿。拝殿より奥は垣で囲まれている、朱が鮮やか。
広場より石段を上ると拝殿。拝殿より奥は垣で囲まれている、朱が鮮やか。
拝殿を右側より望む。昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事が行われたとある。
拝殿を右側より望む。昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事が行われたとある。
拝殿を左側より望む。周囲には大きな木が多い。
拝殿を左側より望む。周囲には大きな木が多い。
拝殿内部を望む。扁額には御形神社とある。
拝殿内部を望む。扁額には御形神社とある。
拝殿と本殿を右側より望む。本殿はさらに垣で囲まれ残念ながら近づくことはできない。
拝殿と本殿を右側より望む。本殿はさらに垣で囲まれ残念ながら近づくことはできない。
国指定重要文化財(建造物)の本殿。大永7年(1527年)造営とある。昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事が施され鮮やかな色彩を保っている。
国指定重要文化財(建造物)の本殿。大永7年(1527年)造営とある。昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事が施され鮮やかな色彩を保っている。
本殿後方のご神木である「夜の間の杉」。宝亀3年(772年)現在地に遷座した際の由緒が残っている。
本殿後方のご神木である「夜の間の杉」。宝亀3年(772年)現在地に遷座した際の由緒が残っている。
「夜の間の杉」に繋がっている鈴の緒。「夜の間の杉」と一体となれる。
「夜の間の杉」に繋がっている鈴の緒。「夜の間の杉」と一体となれる。
本殿を左奥より望む。屋根のカーブがきれい。
本殿を左奥より望む。屋根のカーブがきれい。
神社謹製の「重要文化財 本殿の説明」。昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事が行われたとある。
神社謹製の「重要文化財 本殿の説明」。昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事が行われたとある。
拝殿と本殿を左側より望む。
拝殿と本殿を左側より望む。
拝殿前より山門を望む。社域は広く数多くの建物がある。山門の屋根越しに見えているのは三方の集落。
拝殿前より山門を望む。社域は広く数多くの建物がある。山門の屋根越しに見えているのは三方の集落。
儀式殿の前にある「ご神水と南天」。
儀式殿の前にある「ご神水と南天」。
溶ける紙に願いを書いて水に流すと願いが叶うとある。
溶ける紙に願いを書いて水に流すと願いが叶うとある。
広場の右奥より土俵と舞台を望む。
広場の右奥より土俵と舞台を望む。
山門より二の鳥居を望む。
山門より二の鳥居を望む。

感想


神社謹製の由緒書によると

御祭神 御形神社は葦原志許男神を主祭神とし、右殿に
月夜見神、天日槍神、左殿に高皇産霊神、須佐之男神を
あわせて祀る社である。葦原志許男神は大国主神の別の名
で「だいこくさま」のことである。

祥社の発祥 葦原志許男神は天日槍神を共に、いわゆる
国土経営に際し故墨志爾嵩-今の高峯山-におわして
土地を拓き蒼生を定め播北と但馬の地を統治されたがこ
と終えられてこの嵩を出発されるにあたり、長かった行
在の記念として大神が自らの御杖を形見として山上に刺
植えられたことが播磨風土記に見え、御形の社名もこの
形見即ち御形代から起こったといわれる。なおこの嵩の上
に大神の御徳業を慕い神祠が営まれたがこれが御形神社
の発祥である。

夜の間の杉と神社の創立 宝亀年間、みかたの里の山神
の森に一夜の間に一抱えにあまる大杉三本が鼎形に生
い立ち、その夜近傍の里人数十人霊夢を見たといい、こ
れはまさしく大神のご遷座の奇瑞であると早速里人はこの
森を拓き鼎立した大杉の中心に社殿を造営し宝亀三年
故墨志爾嵩より大神を遷座したのが御形神社の創立であ

神社の沿革 御形神社は創立後、昭和四十六年で千二百
年を迎えたがその間、ご神徳はますます隆盛で平安朝で
は延喜式の制小社に列せられいわゆる式内社であり、文
徳、醍醐、後醍醐天皇の御代には震災除け、国家安穏、
五穀豊穣、祈晴祈雨のためしばしば勅使の参向があった
また、天正十三年羽柴秀吉が竹田城攻略途上武運長久を
祈願し、元禄十四年には大石良雄がひそかに心願成就の
祈念に参拝する等の他藩主諸侯の崇敬も厚かった。
明治六年郷社となり更に同十九年には県社に列せられた
氏子近郷ひろく名称を高見社と称しているが、これは御
祭神のなかの高皇産霊神-高見大明神-が主祭神であっ
た頃の社号が今尚一部に残っているのである

とある。


御形神社のWebサイトによると

御形神社について
 当社は1200年以上の歴史を持ち、ご祭神は常に「氏子繁栄」を主として見守られ、氏子もまた氏神様を篤く尊崇してきました。その他に五穀豊穣、産業育成、祈雨祈晴、病気平癒などは霊験あらたかなもののうちです。

 特に秘伝の病気平癒の蟇目祈祷は、大病難病に効果著しいとして、今も氏子を中心に広く知られています。

御祭神
本殿 葦原志許男神・相殿神素戔嗚神・高皇産霊神・月夜見神・天日槍神

末社 佐閉神社(右側) 日吉神社(左側)

御由緒
 当社は、「みかた神社」または「たかみさん」「県社」などと申し、社格は式内小社。
 当社のご祭神は葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)と申し、又の御名を大国主神(オオクニヌシノカミ)とも申し上げます。志許(シコ)は 、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫(シンイカク)たる神という意味であります。 この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。
 しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)ずつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。
 やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標(シルシ)とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。 やがて奈良朝の宝亀3年(772年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらうとの事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。平安時代延長5年(927)撰進の「延喜式」にその名が見え、下って室町時代後期の大永7年(1527)3度目の火災の後再建されたのが現在の御本殿です。三間社流造、檜皮葺、昭和42年国指定重要文化財に指定され、昭和46、7年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。

とある。


神社謹製の「重要文化財 本殿の説明」説明書きによると

重要文化財 本殿の説明

一、本殿の概要
 本殿の建立は奈良朝宝亀三年(772)が創建でその後再建立があり
 更に室町末期大永七年(1527)再々建立がなされ、それが現存する
 本殿である
  本殿は三間社流れ造り桧皮葺で側廻りに髙欄をつけ
 た椽を設け柱の上の組物は三ツ斗の出組で軒支輪を配
 し木鼻や手狭蟇股などには室町末期の様式技法を伝
 える繊細な木組や彫刻があり彩色も施されている
 現本殿は建立以来数回にわたる大小修理が行われ明治三十六
 年-七年境内大模様替の際透塀が新設され現状の姿に整えられた
二、重要文化財指定
 右のような沿革を持つ本殿は日本建築史上その形式技法
 にきわめて優れたものを遺存しており昭和三十年以来この
 道の権威の度重なる調査研究の結果が日本建築学会に報告
 され昭和四十二年六月国指定重要文化財となった
三、本殿の解体修理
 建物の主要部は建立当初のもので部材の虫害腐朽が甚だし
 く国の補助事業として今回次のとおりの解体修理を行った
(イ)修理の方針
 解体修理とし後世改変された箇所はできる限り当初の姿に復
 元を行う。建物の部材を再用新補の材も原則として旧形旧工
 法を踏襲する。基壇は根本から積替えを行う
(ロ)工期 工事費等
 工期 着工 昭和四十六年二月一日竣工昭和四十七年二月二十九日
 工事費 金 二〇,四四二,〇三〇円也
     内訳 国費補助一七,〇五一,〇〇〇円
        県費補助 一,二〇三,〇〇〇円
        町費補助 一,二〇三,〇〇〇円
        神社負担他  九八五,〇三〇円
設計監理 文化庁及財団法人文化財建造物保存技術協会
施  工 重要文化財御形神社本殿保存修理委員会
 以上

とある。


神社謹製の「ご神水と南天」説明書きによると

御形神社の水流し
 ご神水と南天(なんてん)

 当社は古くから、健康・病気平癒のご神
徳著しい神社として信仰されています。この
手水鉢の水は、神域からの湧き水を利用し
ており、神様の恵みが宿っています。また、
南天の木も古くから「難を転じて福となす」
縁起木として知られています。
 用紙(溶ける紙)に、貴方に起こった嫌なこ
と、忘れてしまいたいこと、治したい病名など
を書いて静かにこのご神水に浮かべてください。
 水に溶けて消えてゆくように、ご神水と
南天が貴方の悩みを水に流してくれることで
しょう。
 御形神社社務所

とある。


神社謹製の「百人一首の絵馬」説明書きによると

 この舞台に掛けてある百人一首の絵馬は
江戸時代後期弘化三年(一八四六)の作で
百人全部の歌が揃っている例としては、全
国的にも非常に珍しく、当時のこの里の文
化水準を示す証拠の一つです。

とある。


宍粟市教育委員会謹製の説明書きによると

左義長羽子板

 長さ五四.五cm、幅一七.五cmの
華麗な羽子板で、正月一五日に
宮中で行われた左義長(地方
ではとんど焼きとして伝えら
れています)の様子が表裏に
描かれています。
 羽子板を収めた箱の表書き
には、正徳三年(一七一三)の年号
が記されており、奉納された
年次がわかります。

 宍粟市教育委員会

とある。


宍粟市教育委員会謹製の説明書きによると

 巴御前勇戦図絵馬

 御形神社に奉納されている
絵馬で、横一一〇五.五cm、縦
一四七.五cmを測り、額縁の朱
書きから、嘉永七年(一八五四)
に製作されたことがわかりま
す。
 打出浜での最後の戦いで奮
戦する巴御前の勇姿が描かれ
ており、保存状態も良くきわ
めて美しい画面を残しています。

 宍粟市教育委員会

とある。


宍粟市教育委員会謹製の説明書きによると

 百人一首図絵馬(附・由緒書)

 絵馬は全部で一七面あり、
百人の歌仙全部が描かれた類
例は全国でも少なく県下では
唯一のもので、保存状態も良
好できわめて貴重な遺品とい
えます。
 ほかに由緒書二面が添えら
れており、弘化二年(一八四六)
に奉納されたことがわかりま
す。

 宍粟市教育委員会

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、葦原志許男神・(配祀)高皇産靈神・月夜見神・素戔嗚神・天日槍神。

宝亀3年(772年)現在地に遷座。
永承4年(1049年)造営。
応永21年(1414年)造営。
文明3年(1471年)造営。
大永7年(1527年)造営。
天正13年(1585年)豊臣秀吉祈誓。
明治6年(1873年)11月郷社。
明治19年(1886年)2月県社。
昭和42年(1967)重要文化財に指定(追加)。
昭和46~7年(1971~1972年)解体復元工事(追加)。
平成15年(2003年)に屋根修理(追加)。

最初の鎮座地は高峰山(風土記云、黒土志邇嵩)の頂上、宝亀3年(772年)現在地に遷座。

江戸時代までは「高見大明神」と呼ばれていた。

葦原志許男神は天日槍神と共に国土経営に際し、黒土志邇嵩におわして土地を拓き、蒼生を定め播北と但馬を統治されたが、事終えられてこの嵩を出発されるに当り、長かつた行在の記念として自らの御杖を山上に刺植えられて形見とされた。よつて社名の「御形」はこの形見、即ち形見代、御形代の意によつて起つたものである。
当初は南東にある高峰山山頂に鎮座していたが宝亀三年(772)、霊夢により社殿を造営し、現社地に遷座。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)
配祀神:高皇産霊神(タカミムスビノカミ)・月夜見神(ツキヨミノカミ)・素盞嗚神(スサノオノカミ)・天日槍神(アメノヒボコノカミ)

祭記事:
 大東亜戦争後、秋祭(10/10)から分離して春祭(5/1)が行われたが、途中より5/3に変更。神輿3基の渡御祭として行っている。
 秋祭は子供相撲、小学5.6年(氏子)の3小学校と1中学校の生徒達による奉納。大福引きもある。
 3月第1日曜日に頭屋(お当祭)という古い祭がある。繁盛、三方、下三方から各1人の当人が選ばれて、1年間御分霊を自宅で祀り、神社へは月2回の参拝をする例がある。
 3月17日、お当奉迎祭(お当迎え)

由 緒:
 当社のご祭神は、またの御名を大国主神とも申し上げます。この神様が当地方を治められていた頃、その途中に天日槍神が渡来して、国争いが起こり、二神は黒葛を以て治める国を定めました。葦原志許男神は、但馬の気多郡、養父郡、三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神は但馬国となり鎮まりました(出石神社)。
 やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。
 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。やがて奈良朝の宝亀3年(772)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらうとの事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが現在地での起源であります。
 御本殿は、三間社流造、檜皮葺、大永7年(1527)の建立で、昭和42年(1967)重要文化財に指定され、昭和46(1971)、7年(1972)に解体復元工事。平成15年(2003)に屋根修理。

とある。


御形神社のある当地は、揖保川の上流部に当たる場所、古くから開かれた場所のようでおおいに興味深い地域でもある。
古代におけるこの地域の主要な交通網としては揖保川と因幡街道だろうか、古代山陽道は南へ約25kmも離れている。
御形神社の鎮座する場所は、宍粟市一宮で揖保川と引原川が分岐する地点より揖保川沿いの谷筋を10kmほど上流へ遡った場所。
現在でも、東は山を越えれば生野、北は明延があり1000m級の山々が連なる地域でいかにも鉱物資源に恵まれた場所なのだと思われる。
こうした地域だから大国主神と天日槍神が覇権を争ったというのもうなづけるような気がする。
現代的な感覚ではかなりの山間部という印象だが古代においては非常に重要な場所だったと思われ周囲には遺跡も多い。
宍粟市一宮町には次に上げるたくさんの遺跡等があるようだ。
高取城跡・・森ノ元遺跡・草置城跡・百千家満遺跡・家原遺跡・公文遺跡・森添遺跡・上町遺跡・宇奈手1号墳~14号墳・井田1号墳~4号墳・福野遺跡・河原田東遺跡・河原田千尾遺跡・河原田椿下遺跡・河原田平遺跡・御形城跡・樅木遺跡・溝谷遺跡・手洗淵遺跡・阿舎利遺跡・池垣内遺跡・深河谷遺跡・生栖遺跡・楽里遺跡・明泉山城跡・嵯峨山遺跡・安積1号墳~3号墳・古山城跡・安積山遺跡・三林遺跡・安積金山1号墳~7号墳・宮ノ下遺跡・中安積遺跡・安積館跡・安積条里遺跡・土居ノ元遺跡・閏賀銅鐸出土地・秋姫祠遺跡・閏賀遺跡A地点・閏賀遺跡B地点・岩ヶ口古墳・岩ヶ口遺跡・乗取遺跡・杉田遺跡・西安積遺跡・一つ山古墳・伊和遺跡・伊和中山1号墳~19号墳・安黒御山1号墳~16号墳・嶋田湯ノ郷山1号墳~13号墳・池岩1号墳~3号墳・嶋田湯ノ郷山14号墳~15号墳・瀧ノ内経塚・岡城跡・伊和厳島遺跡・白倉山磐座遺跡・宮山磐座遺跡・高畑山磐座遺跡・花咲磐座遺跡・阿舎利東遺跡・梨ノ木遺跡・富土野銅山遺跡・富土野遺跡・生栖城山城跡・滝ケ谷遺跡・横住銅鏡出土地・一つ山古1基・庭田神社のケヤキの大木1本安積のカヤの古木1本・池王神社のアカガシ林 等(兵庫県考古博物館資料による)。

御形神社のご祭神は、葦原志許男神・(配祀)高皇産靈神・月夜見神・素戔嗚神・天日槍神。
由緒書にもあるように葦原志許男神とは大国主神のことで伊和神社と同じ、伊和大神とも称され播磨の開拓神。
大国主神を祀る式内社は310-010_射楯兵主神社(姫路市総社本町)・311-030_祝田神社(たつの市揖西町)・313-010_伊和神社(宍粟市一宮町須行名)、そして313-020_御形神社(宍粟市一宮町森添)があり、この式内社の分布がそのまま勢力圏といったところだろうか。
創建当初は現在地より南東2kmほどの高峰山山頂に鎮座していたが宝亀3年(772年)現在地に遷座とある。
やはり神々は高い場所がお好きなようだ。

御形神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
国道429号線の信号の無い三方町交差点に御形神社への案内看板がある。
三方町交差点より北に入り揖保川を渡って集落に入り900メートルほどで右側(東)に公文川に掛かる橋の向こうに石標がある。
ここからの眺めは素晴らしく東の山裾に向かって参道が真っすぐ伸びている。
一の鳥居からは350メートルほどで二の鳥居、ありがたいことに鳥居の手前に大きな駐車場がある。

御形神社の二の鳥居をくぐると正面に山門、右手にはトイレ、左手は集落へ通じる道となっている。
立派な山門をくぐると目を引くのが正面にある大きな絵馬、左手に社務所がある。
大きな絵馬がかかる建物は舞台となっていて本殿の方を向いている、社域には実にたくさんの建物がある。
さらに進むと拝殿下の広場、右手に土俵と奥にお社がある、左手には儀式殿がある。
さらに石段を上ると垣がめぐらされた拝殿にたどり着く。
拝殿・本殿は昭和46~7年(1971~1972年)の解体復元工事がなされ鮮やかな朱がまだまだ健在で彫り物も彩色され素晴らしい状態。
残念ながら本殿の廻りにはさらに垣がめぐらされ近づくことはできない。
本殿の後方にはご神木である「夜の間の杉」、鈴の緒が繋がっており「夜の間の杉」と一体となれる。

御形神社を訪ねてみると大国主神への尊崇は今も色濃く残っている。
全体的に社域は非常に広く社殿は立派、見晴らしの良い山裾の丘陵地に鎮座し地域に愛されている様子がよく分かる。
個人的には大好きな神社のひとつ。

大国主神の足跡を色濃く残す神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2018/5/27、2022/8/12
交通手段:クルマで訪問
カメラ :DMC-TZ60、E-M1 MarkII + M.ZUIKO DIGITAL ED7-14mm F2.8 PRO、α7R3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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