267-080_(論)阿良須神社(舞鶴市小倉)

比定社:(論)阿良須神社(舞鶴市小倉)

式内社コード:267-080
神名帳社名 :阿良須神社、アラスノ
社    格:小
所 在 地 :625-0020 京都府舞鶴市小倉13
Plus Code  :FCJJ+67 舞鶴市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「あらすじんじゃ」と読む。
小倉集落の西の山裾に鎮座。
前を国道27号線が走っているのですぐに見つけることができる。
駐車場はないので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

台風による被害から修復なった本殿の彫り物。

写真

阿良須神社を正面から望む。左に阿良須神社、右に冨留山神社と鳥居が並んでいる。前は国道27号線。
阿良須神社を正面から望む。左に阿良須神社、右に冨留山神社と鳥居が並んでいる。前は国道27号線。
右側(西)を望む。国道27号線の舞鶴方面となる。
右側(西)を望む。国道27号線の舞鶴方面となる。
左側(東)を望む。国道27号線の若狭高浜方面となる、周辺は事業所が多い。
左側(東)を望む。国道27号線の若狭高浜方面となる、周辺は事業所が多い。
鳥居を望む。階段を登ると鳥居があり古さを感じさせる。ここに遷座したのは慶長6年(1601年)とある。
鳥居を望む。階段を登ると鳥居があり古さを感じさせる。ここに遷座したのは慶長6年(1601年)とある。
社標には郷社とある。社域の石でできたものは古いものが残っている。
社標には郷社とある。社域の石でできたものは古いものが残っている。
神社謹製の由緒書。かなり詳しいので参考になるが読みにくい…。ご祭神は豊受大神とある。
神社謹製の由緒書。かなり詳しいので参考になるが読みにくい…。ご祭神は豊受大神とある。
手水舎。
手水舎。
明治四十年とある石碑。鎮座二千年祭とある、確かに一番最初は崇神天皇10年(前88年、諸説あり)だ
明治四十年とある石碑。鎮座二千年祭とある、確かに一番最初は崇神天皇10年(前88年、諸説あり)だ。
拝殿を正面から望む。拝殿+片拝殿のような形式をとる立派なもの。右側にチラッと見えるのは冨留山神社の本殿。
拝殿を正面から望む。拝殿+片拝殿のような形式をとる立派なもの。右側にチラッと見えるのは冨留山神社の本殿。
拝殿を右側から望む。左に見えるのは愛宕神社の鳥居、ここから登るようになっているみたいだ(行ってない)。
拝殿を右側から望む。左に見えるのは愛宕神社の鳥居、ここから登るようになっているみたいだ(行ってない)。
拝殿を右側から望む。右側の冨留山神社のほうが一段高くなっている。ちなみに阿良須神社本殿は北向き、冨留山神社の本殿は東向きだ。
拝殿を右側から望む。右側の冨留山神社のほうが一段高くなっている。ちなみに阿良須神社本殿は北向き、冨留山神社の本殿は東向きだ。
拝殿を左側から望む。なかなか良い雰囲気。すぐ右手に冨留山神社が鎮座しているのが分かる。
拝殿を左側から望む。なかなか良い雰囲気。すぐ右手に冨留山神社が鎮座しているのが分かる。
拝殿より本殿を望む。遠くから見ても彫り物がふんだんに施されているのがよく分かる。
拝殿より本殿を望む。遠くから見ても彫り物がふんだんに施されているのがよく分かる。
本殿を正面から望む。こじんまりとしているが良い状態。平成16年(2004年)の台風23号で本殿が倒木で壊れたが修復されたもの。
本殿を正面から望む。こじんまりとしているが良い状態。平成16年(2004年)の台風23号で本殿が倒木で壊れたが修復されたもの。
本殿の彫り物は細かく豪華。一見の価値がある。
本殿の彫り物は細かく豪華。一見の価値がある。
本殿を右から望む。横も凝った彫り物が施される。
本殿を右から望む。横も凝った彫り物が施される。
本殿の左脇に立つ社標には式内とある。
本殿の左脇に立つ社標には式内とある。
冨留山神社の本殿前には「おまつ神事」で使用する出っ張りが3箇所ある。
冨留山神社の本殿前には「おまつ神事」で使用する出っ張りが3箇所ある。
冨留山神社の本殿前を正面から望む。覆屋に入り小さな本殿だ。なぜこんな近くにあるのだろうか?気になる。
冨留山神社の本殿前を正面から望む。覆屋に入り小さな本殿だ。なぜこんな近くにあるのだろうか?気になる。
冨留山神社の本殿前の覆屋内にある「おまつ神事」の説明書き。3箇所の出っ張りに松明をかかげるような感じ。
冨留山神社の本殿前の覆屋内にある「おまつ神事」の説明書き。3箇所の出っ張りに松明をかかげるような感じ。
拝殿より鳥居を望む。
拝殿より鳥居を望む。

感想

神社謹製の由緒書によると

阿良須神社由緒
(鎮座地) 舞鶴市大字小倉小字フル宮十三番地
(旧社格) 郷社 延喜制式内社
(旧社名及別称)柳原宮、大森宮一宮、豊受阿良須神社
(御祭神)豊受大神一座、相殿神、多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命 三座
     木花咲夜姫命(殿内祕座二宮神)
由緒
当社は崇神天皇十年丹波将軍道主王(みちぬしおう)が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠(つちぐもくがみみのみかさ)と云う兇賊を征伐し給う時豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創祀とする
降りて天武天皇白鳳十年九月三日柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す遡りて元年大友皇子の御謀反の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を吟じ給う
 曇る世に柳ヶ原をなかむれは
   神の恵みや晴るヽ朝霧
 風来ぬる青葉の山の煙りたへ
   行き先遠き雲の上かな
御染筆奉納ありたり爾来朝家の御崇敬厚く殊に延暦二十四年正一位を賜る
堀河院御子無きをうれいて当宮に祈願を寄せ給いしに感応ありて宗仁親王誕生あらせられければ寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる御筆は羽林飛鳥卿の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊なる神徳を現し給うと云う。
貞元年中当国に叛賊起こり国内乱れし時藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す。
観応元年三月十五日神田五反政所尭基寛正三年神田一反代官河嶋主計充秀寄進す。
而して慶長五年九月七日兵燹(へいせん)に罹りて本殿、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。
翌年九月二十三日、細川忠興社を布留山の地へ遷す則ち今の社地なり。
 その後
 明暦四年三月二十四日
 文政十二年六月三日
  両度本殿を改築す
(例祭)   九月三日が古例なれど現在は十月末の日曜日
(式年行事) 御屋根洗式十ケ年 近年行われず
(所有文書) 南北朝室町時代文書十三通(一巻)一宮大明神縁起(一巻)同造立願文(一巻)大般若経(一巻)を蔵し大般若経を除き京都府登録文化財並びに舞鶴市指定文化財である。
宮司 森本太郎夫

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、豊受大神、(配祀)迩迩芸命・天児屋根命・天太玉命
崇神天皇10年(前88年、諸説あり)丹波道主命浅香森に勅祀(修正)。
天武天皇白鳳10年(681年)春部連青雲別命が柳原に奉祀(修正)。
延暦24年(805年)正一位を賜る(追加)。
天長6年(829年)高岡親王參拝。
貞元年間(976~978年)藤原保昌により加佐一宮とされる。
寛治元年(1087年)正一位一宮大明神の御額奉らる(追加)。
慶長5年(1600年)兵火で社殿焼失。
慶長6年(1601年)細川忠興柳原より布留山へ遷祀(修正)。
明暦4年(1658年)京極高直社殿寄進。
文政12年(1829年)本殿を改築(追加)。
明治元年(1868年)小倉神社と改称。
明治4年(1871年)村社。
明治14年(1881年)一宮神社と改称。
明治36年(1903年)阿良須神社と改名。
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進指定。
昭和9年(1934年)郷社。
平成16年(2004年)台風23号により倒木で本殿破損(追加)。
平成18年(2006年)本殿修理完了(追加)。
江戸時代までは「春日部一宮」「一宮大明神」「大森明神」と呼ばれていた。
崇神天皇10年(前88年、諸説あり)丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠という兇賊を征伐し給う時豊受大神を神奈備の浅香の森にお祭りされたのを創祀とする。
白鳳期に「豐受皇阿良須神社」として創祀され、爾来、春日部一宮、一宮大明神、大森明神、小倉神社、一宮神社等を経て、明治36年(1903年)以来阿良須神社となっている。

とある。

延喜式神名帳の丹後国・加佐郡・「阿良須神社」の論社2社のうちの1つ。

当地は、古代は志楽庄春部村という地名だった。
その名残が志楽川だったり志楽小学校だったり残っていて、その中心地で中心的存在だったようだ。
だから「春日部一宮」「一宮大明神」という名称も伝えられている。

当社は創建時より2回ほど遷座していると思われる。
崇神天皇10年(前88年、諸説あり)の創建時は浅香森。
次に、天武天皇白鳳10年(681年)は柳原。
これらの場所はハッキリしないようだ。
その後、慶長6年(1601年)に現在の地(布留山)に落ち着いたようだ。

現在地は少々変わった構成となっている。
北側(国道27号線)から見れば、右が「おまつ神事」で有名な富留山神社、左が阿良須神社となっている。
各々の神社の社域を見れば明らかだが、富留山神社の位置のほうが高い場所にある。
慶長6年(1601年)の遷座の時に、元々富留山神社の社域だった場所に割り込んだような形なのだろうと思う(個人的見解です)。

本殿の向きは冨留山神社は東を向いているが、阿良須神社は北を向いており珍しい。
鳥居の扁額には正一位一宮大明神とある。

社域は広いが建物が少なく、拝殿は左右に広く片拝殿のような形式となっている。
台風被害から平成18年(2006年)に修復なった本殿は彫り物が立派で豪華な印象。
本殿の回りも非常にオープンで近づいてじっくり味わうことができる。

明治期に2回も名前を変えている神社。

注意点

駐車場はないので注意。

訪問ノート

訪問日 :2020/5/30
交通手段:クルマで訪問
カメラ :EOS80D + TAMRON 10-24mm F/3.5-4.5 Di II VC HLD B023

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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