比定社:倭文神社(舞鶴市今田)
式内社コード:267-040
神名帳社名 :倭文神社、シトリノ
社 格:小
所 在 地 :624-0813 京都府舞鶴市今田1010
Plus Code :C88R+22 舞鶴市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
しどりじんじゃと読む。
今田集落の南西の平地に鎮座。
京都府道74号舞鶴綾部福知山線沿いに社標があり東へ入って突き当りにある。
府道より社叢と鳥居が見えるので分かりやすい。
クルマは集会所の裏手にスペースがあるので駐車可能。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
まるで江戸時代へタイムスリップしたみたいな社域。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
倭文神社(しどり)の由来
当神社の祭神(さいじん)は、「天羽槌雄神(あめのはづちおのみこと)」で織物の神様として、平安時代延長五年(九二七年)の神名帳(しんめいちょう)に記載されている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、創立は、それより相当古くから当地に鎮座されていたと考えられます。
現在の本殿は、天保五年(一八三四年)「一間社流造(いっけんしゃながれづくり)」の形式で舞殿(まいどの)は、安政六年(一八五九年)に改築されたもので華美な装飾が特徴的である近世後期、田辺藩の神社建築様式の流れをくむ貴重な文化財です。当神社の保有する鎌倉時代の男神坐像(だんしんざぞう)一体、室町時代の神像(しんぞう)、狛犬(こまいぬ)四体は、平成六年に市の指定文化財に指定されています。また、指定はされていませんが、室町中期の作と考えられる鰐口(わにぐち)は、表面外区に「蒲生八幡宮(がもうはちまんぐう)」の刻銘があり、簡素ながら作は良いものです。他に天然石を使い、天保時代に造られた四メートルを超える大燈籠は、舞鶴では類のない大きく、立派な形をしており、裏面には「明治十二年から同十三年に流行ったコレラ病が無くなるよう祈願した」と文字が刻まれており、歴史上からも一見する価値はあります。
また伝説によれば、一条天皇正暦元年(九九〇年)三月二十一日源頼光(みなもとのよりみつ)が大江山の鬼退治に出陣の途中、当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています。
「大江町史」より
後、正暦三年(九九二年)藤原朝臣(ふじわらあそん)、平井保昌(ひらいやすまさ)が鬼退治に際し、誓願するために再建したとも伝えられています。旧社領三十石は、平井保昌が寄進したものであったがその後漸次減少して元禄十六年(一七〇三年)の頃には全くその影がなくなりました。
「加佐郡誌」より
当社は、織物の祖神(そしん)のみならず五穀豊穣(ごこくほうじょう)、無病息災(むびょうそくさい)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)の霊験あらたかな神として古来藩主を始め、多くの参拝者の絶えない神社であります。
平成二十年六月吉日 社務所
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、天羽槌命。
正暦元年(990年)源頼光武運長久を祈願(追加)。
正暦3年(992年)藤原朝臣平井保昌により再建(修正)。
天保5年(1834年)本殿造営(追加)。
安政6年(1859年)舞殿改築(追加)。
その後の由緒不詳。
江戸時代までは「志島大明神」「子鳥大明神」と呼ばれていた。
正暦3年(992年)藤原朝臣平井保昌が丹後国大江山の鬼退治に際して誓願するところがあり、その成就の御礼として、神社を再建した。
とある。
由緒書には、源頼光や藤原保昌などの歴史上の有名人が登場するが、創建のいきさつ等々は分からない。
中世の記録が分からないのは残念だ。
それに織物の神さまに武運の長久を祈願するだろうか、すごく違和感がある。
ひょっとしたら成り立ちは異なるのではないだろうか(個人的見解です)。
京都府道74号舞鶴綾部福知山線を舞鶴方向へ走ると右手(東)に一の鳥居が見えるのですぐに分かる。
一の鳥居をくぐると参道は左に曲がり、曲がった所に地域の渋い集会所がある。
社域には古木・大木が多く、素晴らしい社叢を形作っていて、まるで時代劇を見ているようだ。
二の鳥居をくぐると正面には南を向いた社殿がある。
社殿はシンプルで、拝殿兼用の舞殿と覆屋に入った本殿、それらを繋ぐ回廊で構成されている。
舞殿は上がり口が左右に振り分けでフルオープンタイプ。
残念ながら覆屋の中の本殿はよく見ることができない。
早朝に訪ねたが近隣のお年寄りが参拝されており地域に親しまれている様子がよく分かった。
舞鶴市指定文化財として神像5体が指定されている。
天羽槌命をご祭神とすることや、神社名が倭文神社なので織物に関係することは間違い無さそうだ。
だが、由緒にも近隣の地域の情報にもそれらしき雰囲気は無い。
武運の長久を祈願される織物の神さまの神社。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日 :2020/5/30
交通手段:クルマで訪問
カメラ :EOS80D + EF24-105mm f/4L IS USM、TAMRON 10-24mm F/3.5-4.5 Di II VC HLD B023
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。