比定社:多治神社
式内社コード:262-100
神名帳社名 :多沼神社、タヌマノ
社 格:小
所 在 地 :629-0323 京都府南丹市日吉町田原宮ノ前1
Plus Code :5GXC+H8 南丹市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
たぢじんじゃと読む。
日吉ダムの北側の京都府道19号園部平屋線沿いに鎮座。
正面には田原川が流れ、ちょうど支流の川が田原川に合流する地点。
田原川の流域は比較的開けた場所で古来から農業も盛んな地域。
また田原川沿いに進むと周山街道に接続する街道筋だった。
駐車スペースあり。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
緑の濃い落ち着いた社域。
国指定重要無形民俗文化財
田原の御田
文化庁解説:
田原の御田は、御田植【おたうえ】とも呼ばれ、一年間の稲作作業過程を、実際の作業が始まる前に、あらかじめ模擬的・芸能的に演じて、その年の豊作を祈るものである。一〇名ほどの歌い手と、牛や早乙女【さおとめ】を演じる子どもが加わるが、一連の作業は、二名の大人が、すべて軽妙なセリフのやりとりと物まねで演じ、また田植えの場面は、昼前の作業と昼休み後の作業に区切られ、それぞれ決まった田植え歌を歌う。
日吉町の田原地区は、京都と日本海側の若狭【わかさ】地方を結ぶ旧若狭街道に沿った地区で、この御田は、同地の多治神社境内で行われる。多治神社は、社伝によれば八世紀初期に創建されて田原地区の総鎮守であったとされる。同社に残る一六世紀に写したとされる記録によると、一四世紀ころに田原地区では、同社を中心に宮座【みやざ】が組織され、この御田は宮座の行事の一つであった。また現在は使用していないが、かつて御田に使用した鍬【くわ】に元禄四年(一六九一)、鋤【すき】に元文四年(一七三九)と記されている。さらに天保十四年(一八四三)の記録で、御田が五月四日の夜に、今と同じように行われていたことがわかる。
現在の御田は、五月三日の午前中に、多治神社本殿前の約三間四方の拝殿【はいでん】で行われる。なお当日の朝、社殿や拝殿の屋根に、菖蒲の束を投げ上げたり、軒にさしておく。御田を演じるのは、タチウド(立人)とも呼ばれるサクタロウ(作太郎)とサクジロウ(作次郎)の男性大人二人、早乙女役の四名の小学生女子と牛役の小学生男子一名に、歌い手は一〇人ほどの男性の大人である。演じ手は、あらかじめ選ばれ、大人は裃姿で、早乙女は、頭に折編笠【おれあみがさ】をかぶり、着物を短く着て赤の蹴出【けだ】しを見せ、赤襷【たすき】をしめる。牛役は着物姿で、頭に牛の角のように二本の菖蒲を付けている。子どもたちは、当日、神社境内の社務所で着替えて所作の仕上げをする。
御田を行う拝殿には、本殿側に棚を設けて、その上に菖蒲、暦の本、アラレを盛った皿、豆を盛った皿をのせてある。本殿に向かって右に、サクタロウとサクジロウが中央を向いて座り、歌い手は、本殿に向かって左側に中央を向いて並んで座る。なお前列の歌い手は、前に提灯を立てているが、これは、かつて夜に行っていた名残であるという。本殿から遠い側に、本殿に向かって早乙女が座り、牛役の子どもは、歌い手と早乙女の間に座る。
御田の次第は①日柄改【ひがらあらた】め、②籾種揃【もみたねそろ】え、③池さらえ、④種漬け、⑤種上げ、⑥苗代つくり、これは畦【あぜ】ぬりと水戸【みと】切りで、次に⑦種蒔【ま】き、⑧鳥追い、⑨牛買い、⑩田すき、⑪苗取り、⑫田植え、⑬見回り、⑭刈り入れ、⑮刈り終【しま】いである。以上の次第の大筋は決まっているが、サクタロウとサクジロウのセリフは即興的な要素が強い。
例えば日柄改めは、暦を見ながら、作業開始の日を決める場面だが、そこで老齢のせいで暦が読みにくくなったなどと言い合ったり、今年は春先まで大雪だったなど、その年々で違ったセリフのやりとりが行われる。さらに牛買いでは、牛の値段の交渉に、その年の物価状況や世の中の景気不景気の様子を織り込んだり、田すきの場では牛が暴れて突き飛ばされるが、そのときのセリフや所作、また早乙女や歌い手をほめたり、ときにけなしたりするセリフなどに、あらかじめ決まっていない言葉が使われ、相手が直ちに対応できないで周囲の笑いを誘うようなことがある。このように要点を決めた上で、あとは即興的なセリフのやりとりで軽妙に筋を進めていく様子は、現在の狂言の成立当初の姿をうかがわせる。
また田植えは、歌い手が田植え歌を歌うなか、菖蒲を苗に見立て、早乙女役の少女が、拝殿をあとずさりして、苗を植える様子を表現するが、途中に昼休みとして作業を止め、歌い手に酒をすすめたり、早乙女や見物に袋菓子が配られる。この袋菓子は、昼御飯という意味とされ、かつては煎り豆やアラレであったという。また田植え歌は、朝の歌と昼休みの後の歌が決まっているが、その歌詞の構成は、近世初頭の形式を残し、また歌とともに、朝から昼休みを経て午後につながる次第は、中世に太鼓や歌とともに行われた「はやし田【だ】」の様子をうかがわせる。
このように田原の御田は、即興的なセリフのやりとりで進行して、かつての狂言の様子をうかがわせ、また古風な田植え歌とともに行われる田植えの次第によって芸能の変遷の過程を示し、一連の稲作作業のほとんどすべてを所作に仕組んでいるなど地域的特色を示すものとして特に重要である。
国指定記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
田原のカッコスリ
文化庁解説:
田原のカッコスリは、地元の多治神社の秋の祭礼の折りに、稚児【ちご】を中心に、鼓【つづみ】や太鼓【たいこ】、笛の演奏者と踊り手が、踊り手の歌にあわせ踊るもので、中世に流行した風流【ふりゅう】踊の様子をうかがわせる。
この多治神社の秋の祭礼は、平成九年から、十月十五日以前の、それに近い日曜日になったが、以前は十月十五日に行われ、さらに明治三十七年(一九〇四)の記録では十月八日に行われ、江戸時代の記録には七月八日に行われてきたとある。
カッコスリとは、今は伝承全体の名称であるとともに、稚児のまわりで鼓を持って踊る人を指すが、江戸時代の記録では、稚児もカッコスリと呼んでいたことがわかり、稚児が付けた鞨鼓【かっこ】にちなむ名称とされる。ただし近年、稚児が鞨鼓を付けることが、とだえていた時期があり、神社に保存されていた鞨鼓を、あらためて稚児が付けるようになったのは昭和五十八年からである。
地元では祭礼前夜に社務所で仕上げの練習をして、祭礼の当日の午前中に神社社務所に関係者が集まり、衣裳をつけて社務所の座敷で踊る。その後、社殿での神事終了後に、拝殿の前の広場で踊り、御輿【みこし】の行列とともに移動して、地区内の若宮【わかみや】社境内で踊り、さらに進んで御旅所【おたびしょ】に移動し、そこでも踊って終了する。
現在、胸に鞨鼓を付けた四名の稚児、そのまわりに鼓を左手に持って、それを打ちながら踊る四名、別に締太鼓【しめだいこ】を持つ者が六名と締太鼓の打ち手が六名、御幣【ごへい】を付けた榊【さかき】の枝を持つサンヤレと呼ばれる者が四名、数名の笛の演奏者、そのほか大勢の踊り手がつく。稚児以外の演じ手は裃姿である。
踊りは、中央に稚児が互いに向き合って立ち、そのまわりを鼓打ちが右回りに鼓を打ちながら踊る。その輪の外側の四隅に、それぞれ榊を持ったサンヤレが立ち、六人の太鼓持ちと太鼓打ちは、互いに向き合って横一列に並ぶ。太鼓の反対側に扇を持った踊り手と笛が並ぶ。なお踊り手はわずかに足を動かしながら歌うだけである。
このような構成は、中世に流行した風流踊の様子を伝えるもので、芸能の変遷の過程および地域的特色を示すが、変容する恐れが少なくないものである。
写真
感想
民俗芸能保存会謹製の由緒書によると
多治神社
由来
神社誌によれば、奈良時代の慶雲年間(七〇四~七)に天智天皇第三皇子田原左大臣により創祀された。
神階 正一位 延喜式内社(国史所載)
祭神 大山咋命、天太玉命
文化財
一、本殿(京都府登録文化財)
本殿はこれまで四度建て替えられており、現在の本殿は江戸時代の宝暦五(一七七五)年、播州の宮大工室田仁左衛門の手による。建築様式は二間社流れ造りで、この種のものでは丹波地区で最大級である。
一、御輿二基(日吉町文化財)
江戸時代後期の弘化二(一八四五)年、氏子の寄進で京の宮大工 吉野屋甚之凾の手により製作された(費用四十五両)。
一、民俗芸能「田原の御田」(国重要無形民俗文化財)
鎌倉時代後期の徳治二(一三〇六)年、豊作祈願の奉納神事として始まる、毎年五月三日祭典執行後奉納される。
一、民俗芸能「カッコスリ」(京都府無形民俗文化財)
室町時代初期の応永二十一(一四一四)年、豊作感謝の奉納神事として始まる。毎年十月十五日までの近い土曜日の宵宮祭直後と翌日の例祭直後、および神輿渡御の間二回奉納される。
平成十四年九月吉日
民俗芸能保存会
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
慶雲年間(704~708年)創建。
乾元元年(1302年)造営。
徳治2年(1307年)「田原の御田」開始(修正)。
応永年間(1394~1428年)三條實雅供御田料として一〇貫文を寄進。
応永21年(1414年)「カッコスリ」開始。
宝暦5年(1755年)の建立(修正)。
弘化2年(1845年)御輿制作(追加)。
明治10年(1877年)郷社。
江戸時代までは「多治大明神」と呼ばれていた。
とある。
由緒書に田原左大臣とあるのは、天智天皇の皇子である志貴皇子(しきのみこ)のことで、第49代光仁天皇(こうにんてんのう)の父君である方だ。
どういう経緯や事情で勧請されたのかは分からない。
当地は旧若狭街道に沿った地区で古来から往来の多い場所だったと思われる。
地名としては「田原」、延喜式神名帳には「多沼神社(たぬま)」、現在の社名は「多治神社(たぢ)」となっていてややこしい、「た」がつくのだけが共通だ。
緑が多い、落ちついた社域は、よく手入れされており、非常に気持ちが良く参拝できる。
四季折々の表情を見せてくれる社域は、いつ訪ねても目を楽しませてくれる。
二の鳥居前にも茅葺の建物があり非常に雰囲気がある。
社殿は、宝暦5年(1755年)の建築と思われるが非常に状態が良い。
拝殿(舞殿かもしれない)は、フルオープン形式で本当に何もない土間のみの形式となっている。
本殿前の2本の巨木が印象的。
本殿は一応垣に囲まれているが自由に入って参拝できる。
国指定重要無形民俗文化財の田原の御田をぜひ見てみたい。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日:2019/5/18、2020/3/17
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。