比定社:(論)平内神社
式内社コード:277-040
神名帳社名 :伊伎佐神社 三座、イサキノ
社 格 :小
所 在 地 :669-6671 兵庫県美方郡香美町香住区余部2900-2
Plus Code :MG7V+94 香美町、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「ひらうちじんじゃ」と読む、地名の余部は「あまるべ」と読む。
御崎集落の西の山の中腹に鎮座。
御崎集落へは国道179号線の余部交差点より伊伎佐神社の前を通り北へ向かう。
距離にして3.2kmほどで御崎集落の入り口に到着する。
御崎集落の入口にはありがたいことに駐車場がありクルマを駐車することが可能。
ここから徒歩で駐車場よりも1段上の集落の中を進み突き当りのガードレールのところから人家の間を山の方向へ進む。
やがて平坦な部分がありその一番奥にある。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩3】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索4】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
素晴らしい眺望のロケーション。
写真
感想
由緒書はないので詳細不明。
日本遺産 百手の儀式の説明書によると
日本遺産
日本海の風が生んだ絶景と秘境
幸せを呼ぶ霊獣・麒麟が舞う大地「因幡・但馬」
百手の儀式
強風にさらされる断崖に佇む平家の落人を祖とする「御崎集落」に残る伝統行事。
平家再興を夢見るなかで、1月28日夕刻から夜にかけ、氏神の境内で源氏に見立てた的に、門脇、伊賀、矢引の武将にふんした3人の少年が101本の矢を射込み、武を練る伝統的な神事。
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、野椎神。
正治2年(1200年)創祀。
寛延3年(1750年)御崎大明神と改称。
宝暦9年(1759年)三宝荒神山王権現と改称。
宝暦14年(1764年)遷宮・造営。(修正)
安政2年(1855年)造営。
嘉永元年(1848年)山王権現を再興して正遷宮(追加)。
明治6年(1873年)村社。
江戸時代までは「御崎大明神」と呼ばれていた。
集落の一番高いところに鎮座している。
当地は伊伎佐神社の旧地だったという説がある。
とある。
兵庫県神社庁によると
主祭神:野稚神(ヌツチノカミ)
正治2年(1200)6月平教盛伊賀平内右衛門家長の霊祠を建て御霊荒神と称す。
慶長19年(1614)大阪冬の陣起り豊臣秀頼勇士を諸国に募る。御崎村門脇氏伊賀矢引氏其陣に加わりしも和睦によって帰国し翌年夏の陣起こるに及びて之に加わらんとして当社に占う。即ち凶なり。故に其の事を止むと伝う。
寛延3年(1750)受持神主笹尾佐中支配の時、御崎大明神と改称し、出石藩に届け出づ。
宝暦9年(1759)には三宝荒神山王権現と改称し受持神主の笹尾河内より出石藩に届け出づ。同14年(1764)3月21日遷宮を行い、安政2年(1855)6月平内天王の神璽を新調し本殿を再興す。
嘉永元年(1848)9月山王権現を再興して正遷宮を行い、明治6年(1873)10月村社に列す。
とある。
延喜式神名帳・山陰道・但馬国・美含郡の「伊伎佐神社 三座」の論社のひとつ。
平内神社のある御崎集落は、余部鉄橋から北へ2kmほどの日本海へ突き出た伊笹岬の余部埼灯台(御崎灯台)の近く。
このあたりの海岸線は浜が無く断崖絶壁が海に落ち込む地形となっていて険しいところ、但馬北西部の地形をよく表していると思う。
御崎集落は式内社の論社である平内神社よりも平家伝承の地としてのほうが有名、香美町のWebサイトには以下の説明がある。
”香美町香住区にも平家伝承の地が5ヶ所あり、中でも香住区余部の御崎地区は、壇ノ浦の戦いで敗れた門脇宰相平中納言教盛(かどわきさいしょうへいちゅうなごんのりもり=平教盛、平清盛の異母弟)を大将とし、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門らが同じ船に乗り込み、遠く壱岐、対馬方面に逃れようとしたところ、日本海を漂流し香住の近くに流れ着き、磯づたいに御崎まで落ち延び、土着したといわれています。当地にはそれを裏付けるかのように門脇家、矢引家が現存しここで生活されています。”
とある。
平内神社のご祭神は、野椎神。
平内神社の創建は、正治2年(1200年)6月に平教盛伊賀平内右衛門家長の霊祠を建て御霊荒神としたのが始まりとされる。
お気づきだと思うが、平内神社の創建は延喜式神名帳(延長5年(927年))よりも後の時代、式内社として見ると少々複雑というか難解ではある。
この点に関しては様々な情報がある。
平内神社が伊伎佐神社の元鎮座地ではないかというお話。
また東へ600メートルほどの美伊神社(未訪問)を論社(3社目の論社)とするお話もある。
平内神社は近世において社名が何度も変わっている、御霊荒神より御崎大明神へ、さらに三宝荒神山王権現へ、となっている。
さらに御崎集落の中の平内神社の近くに日吉神社(未訪問)があるようだ。
嘉永元年(1848年)9月山王権現を再興して正遷宮を行った、とあるのはこの日吉神社のことだろうか。
式内社としての由緒や経緯は全く不明だ。
さらに平内神社としても様々な変化があったようだ。
謎が多い。
平内神社へのアプローチは簡単で難しい、集落までは分かり易いが集落の中が少々難しい。
御崎集落へは国道179号線の余部交差点より伊伎佐神社の前を通り北へ向かう。
距離にして3.2kmほどで御崎集落の入り口に到着する。
御崎集落の入口には、ありがたいことに駐車場がありクルマを駐車することが可能。
ここまでは分かりやすい。
問題はここからだが、徒歩で駐車場よりも1段上の集落の中を進み突き当りのガードレールのところから人家の間を山の方向へ進む、ここが少々分かりにくい。
いくつかに分岐しているのだが山の方へ向かえば良い。
登り切ると平坦になっておりコンクリートの簡易舗装の道が続いている。
これを進むと携帯電話のアンテナが見えてくる、左手に鳥居と石段が見えたら到着だ。
駐車場からは徒歩で10~15分ほどだろうか。
御崎集落の人家の間を徒歩で登り平坦な場所に着き、コンクリートの簡易舗装の細い道を進むと大きな木と平内神社の鳥居が見えてくる。
石段を登ると鳥居があり、東を向いた社域に横から入るような形になる。
鳥居をくぐると正面には倉庫のような建物、左側に石積みの上に社殿がある。
社殿は覆屋に入った本殿のみの構成でシンプル。
社域からは海が一望できるロケーションで素晴らしい場所にある。
木々が無ければ180度展望が開けているのではないだろうか。
式内社のある地に後の時代たまたま平家の人々が流れ着いて住み着いたという経緯なのだと思う。
しかしよく考えてみると、源平合戦において平家は最終的に朝敵となってしまった。
そんな平家の人たち(朝廷から追われる立場)が親朝廷派である式内社がある場所に住み着くだろうか。
朝廷方に見つかっちゃうとヤバいことになりはしないだろうか。
と考えると「伊伎佐神社 三座」は、このあたりでは無いような気もする。
それとも、平家の人々が流れ着いた時には式内社としては荒廃しており、すでに朝廷の力が及ばない地域だったのだろうか。
想像があれこれ膨らんでしまう。
謎が多いので再度訪問してみないといけない、という思いを持った。
平家伝承の地にある数奇な運命の神社。
注意点
集落の中の簡易舗装の道を登るので歩きやすい靴が良いだろう。
訪問ノート
訪問日 :2021/11/4
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。