309-010_日岡神社

比定社:日岡神社

式内社コード:309-010
神名帳社名 :日岡坐天伊佐佐比古神社、ヒヲカ-
社    格:小
所 在 地 :675-0061 兵庫県加古川市加古川町大野1755
Plus Code  :QVJ6+77 加古川市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「ひおかじんじゃ」と読む、地名の加古川町大野は「かこがわちょうおおの」と読む。
日岡集落の北の日岡山西側山裾に鎮座。
国道2号線(加古川バイパス)の加古川出口より北東へ兵庫県道18号加古川小野線を1.5kmほど。
日岡山公園の案内があるので東へ入って150メートルほどの交差点より日岡神社の案内があるので北東へ入る。
130メートルほどで山門前に到着。
山門脇に駐車場完備。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

古代信仰の中心だった日岡山との関係。

写真

日岡神社の鳥居を正面より臨む。この先320メートルほどの場所に山門がある。鳥居の周囲は住宅。
日岡神社の鳥居を正面より臨む。この先320メートルほどの場所に山門がある。鳥居の周囲は住宅。
鳥居前より右側(東)を臨む。
鳥居前より右側(東)を臨む。
鳥居前より正面(南)を臨む。この方向は国道2号線方面。
鳥居前より正面(南)を臨む。この方向は国道2号線方面。
鳥居前より左側(西)を臨む。
鳥居前より左側(西)を臨む。
鳥居より北東へ300メートルほど来ると山門が見えてくる。
鳥居より北東へ300メートルほど来ると山門が見えてくる。
山門前より右側(東)を臨む。ここも周囲は住宅地。
山門前より右側(東)を臨む。ここも周囲は住宅地。
山門前より正面(南)を臨む。鳥居から来るとこの方向から、なかなか渋い感じの町並み。
山門前より正面(南)を臨む。鳥居から来るとこの方向から、なかなか渋い感じの町並み。
山門前より左側(西)を臨む。
山門前より左側(西)を臨む。
山門前より左側(西)を臨む。
山門を正面より臨む。山門脇には駐車場、右奥にさらに駐車場がある。
山門をくぐって右側を臨む。右手に大きな建物(不明)、右奥に居屋河原日岡神社(大鳥居神社)、その奥にさらに駐車場がある。
山門をくぐって右側を臨む。右手に大きな建物(不明)、右奥に居屋河原日岡神社(大鳥居神社)、その奥にさらに駐車場がある。
山門をくぐって正面を臨む。正面には大きな石灯籠。
山門をくぐって正面を臨む。正面には大きな石灯籠。
少し右手に行くと居屋河原日岡神社(大鳥居神社)がある。
少し右手に行くと居屋河原日岡神社(大鳥居神社)がある。
大きな石灯籠は火を灯すための石段が付く。
大きな石灯籠は火を灯すための石段が付く。
石灯籠から参道を臨む。安産の神様なのでかわいいキャラクターが採用されているようだ。
石灯籠から参道を臨む。安産の神様なのでかわいいキャラクターが採用されているようだ。
参道脇にある加古川市謹製の「わがまち加古川 70選」NO.57 日岡神社(ひおかじんじゃ)の説明書き。
参道脇にある加古川市謹製の「わがまち加古川 70選」NO.57 日岡神社(ひおかじんじゃ)の説明書き。
さらに進むと拝殿前の広い広場。右手に社務所、左手に回廊、いずれもコンクリート製。
さらに進むと拝殿前の広い広場。右手に社務所、左手に回廊、いずれもコンクリート製。
神社謹製の由緒書き。創立年代不祥なれども天平二年の創立とある。
神社謹製の由緒書き。創立年代不祥なれども天平二年の創立とある。
広場の右手にある社務所。
広場の右手にある社務所。
回廊前より拝殿を臨む。背後はこんもりとした日岡山、右奥に日岡陵がある。
回廊前より拝殿を臨む。背後はこんもりとした日岡山、右奥に日岡陵がある。
手水舎は木造。
手水舎は木造。
手水鉢には文政4年(1821年)の銘がある。
手水鉢には文政4年(1821年)の銘がある。
広場より拝殿を臨む。手前は割拝殿のような休憩所のような建物、奥に拝殿となる。
広場より拝殿を臨む。手前は割拝殿のような休憩所のような建物、奥に拝殿となる。
割拝殿のような休憩所のような建物の内部。ベンチがあって参拝者の憩いの場所となっている。
割拝殿のような休憩所のような建物の内部。ベンチがあって参拝者の憩いの場所となっている。
割拝殿のような休憩所のような建物を抜けると拝殿。
割拝殿のような休憩所のような建物を抜けると拝殿。
拝殿を右側より臨む。コンクリート製だがうまく作られていて立派で重厚感がある。
拝殿を右側より臨む。コンクリート製だがうまく作られていて立派で重厚感がある。
拝殿を左側より臨む。
拝殿を左側より臨む。
拝殿内部を臨む。
拝殿内部を臨む。
拝殿の右側には安授殿という建物、奥には神庫がある。
拝殿の右側には安授殿という建物、奥には神庫がある。
拝殿とその後方の幣殿、本殿を右側より臨む。段々となった傾斜地に建てられているのが分かる。
拝殿とその後方の幣殿、本殿を右側より臨む。段々となった傾斜地に建てられているのが分かる。
幣殿と本殿を右側より臨む。
幣殿と本殿を右側より臨む。
本殿左側より拝殿を臨む。こちら側には摂社末社が多数ある。
本殿左側より拝殿を臨む。こちら側には摂社末社が多数ある。
拝殿前より参道を臨む。社域は非常に広大できれいに保たれていて気持ちよく参拝できる。
拝殿前より参道を臨む。社域は非常に広大できれいに保たれていて気持ちよく参拝できる。
参道の途中より山門を臨む。山門のある位置から低くなっているのが分かる。
参道の途中より山門を臨む。山門のある位置から低くなっているのが分かる。
山門越しに鳥居方向を望む。この先320メートルほどに鳥居があるのみで山門から本殿側には鳥居は無い。
山門越しに鳥居方向を望む。この先320メートルほどに鳥居があるのみで山門から本殿側には鳥居は無い。

感想


神社謹製の由緒書きによると

式内社 日岡神社

鎮座地
 兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山一七五五

御祭神
 天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと) 豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)
 鸕草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)  天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)
 市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)

例大祭
 古来は十月初午の日であった

御由緒
 創立年代不祥なれども天平二年の創立と伝えられ
 延喜式の制小社に列せられ江戸時代には武門の崇敬
 を受け 板倉京都所司代より黒印領を得 之より先
 慶長七年池田輝政の命を奉じて若原右京亮制
 礼を寄せ同六年五石の黒印領を捧げたり
 明治七年二月郷社に列せられ江戸時代正一位日向大
 明神と称し明治以後日岡神社と改む
 古来より安産の神様として近郷にその名を馳せ播州
 一の大社であります

とある。


日岡神社のWebサイトによると

御祭神
【主神】
 天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)
 第7代孝霊天皇の皇子。亦名を「彦五十狭芹彦命」と申し、第10代崇神天皇の御代に北陸、東海、西道、丹波に派遣された「四道将軍」の1人。
 吉備津彦命であるとも云われている。
【相殿】
 豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)
 鸕草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)
 市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)

御由緒
当社は、奈良時代第四十五代聖武天皇の御代、天平2年(庚午年、西暦730年)の9月丙午の日に創建されたと伝えられています。
延喜式の制、小社として加古川市で唯一列せられています。(延喜式内社)
江戸時代には武門の崇敬を受け、板倉京都所司代から黒印領を賜りました。
創建当時は正一位日向大明神と称しておりましたが、明治7年(1874年)郷社に列せられ「日岡神社」と改めました。
古来から安産の神さまとして近郷に名を馳せる播州随一の大社です。

日岡陵宮内庁治定
播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)
第12代景行天皇の皇后。櫛角別王(くしつのわけのみこ)、大碓命(おおうすのみこと)、小碓命(おうすのみこと)、神櫛王(かみくしのみこ)の母親とされる。
稲日大郎姫命が双子(大碓命、小碓命)を身籠もった際、当社の御祭神「天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)」が七日七夜祈願をし無事安産でご出産されたと云われる。(亥巳籠起源)
無事に出産された双子の一人、小碓命は後の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」である。
※その由縁により、当社は播磨随一の安産の神様と信仰されています。
※毎年6月24日に「正辰祭」が宮内庁職員奉仕により斎行されています。

「ひれ墓」伝承
皇后が亡くなられた時、日岡山へ葬るため遺体を乗せて印南川(加古川)を渡っていた時、大きなつむじ風が吹いて船は転覆しました。後に「ひれ」と「くしげ」だけが見つかり、これを葬ったので「ひれ墓」とも呼ばれています。『播磨風土記』より
※「ひれ」は「領巾」または「肩巾」と書きます。女性の服飾具として用いられ、首にかけて左右へ長く垂らした織物のこと。※「くしげ」は「櫛笥」と書き、櫛などの化粧道具を入れておく箱のこと

とある。


加古川市謹製の「わがまち加古川 70選」NO.57 日岡神社(ひおかじんじゃ)によると

約1,300年の歴史を持つ神社。景行天皇の皇后稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)が出産の際、
同神社の主祭神・天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)が七日七夜安産を祈り、無事に双子の
皇子が生まれたことから安産の神様として名を馳せました。皇子の一人
は倭健命(やまとたけるのみこと)といわれています。

加古川市

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、天伊佐々彦命・(配祀)豊玉比賣命・鵜草葺不合命・天照皇大御神・市杵島比売命。

天平2年(730年)創立。
慶長6年(1601年)五石の黒印領。
承応元年(1652年)9月姫路城主社参。
明治3年(1868年)4月造営。
明治7年(1874年)2月郷社。
昭和44年(1969年)6月15日不審火により全焼。

江戸時代までは「日向大明神」と呼ばれていた。

神武天皇御東征の折、荒振神が悪行を催し、道中をなやませた。御謀まちまちなる折、国津神、伊佐々辺命が荒振神を亡す謀を奏し奉り、たやすく退治することが出きた。しかし、伊佐々辺命は戦死したので、天皇は大変その死を悲しまれ、戦勝を祈られた御祖神玉依姫と葺不合命の二神に、伊佐々辺命を配して三神として祀られたという。
一方で根拠は詳らかではないが、天平2年(730年)の創建とする説もある。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:天之伊佐々比古命(アメノイササヒコノミコト)
配祀神:天照皇大御神(アマテラシマススメオホミカミ)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・鵜草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)

由 緒:
 天平の時代の創建。
 第12代景行天皇の皇后である稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)が最初のお産が難産で大変お苦しみになられたため、次に皇后がみごもられた時に、天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと/当神社の主祭神)が七日七夜祖神に安産を願い、無事双子の皇子を御安産なされました。
 その言われから当社は安産の守り神として、今日も近郷より大勢の参拝者があとをたちません。

とある。


日岡神社のある当地は、加古川の下流域に当たる場所、かなり古くより開けた場所のようだ。
加古川の水運により兵庫県中央部と繋がるし、すぐ南には山陽道の駅家である賀古(かこ)が加古川市野口町古大内(南へ3.5kmほど)に置かれていたと言われており交通の要衝であったことは間違いない。
日岡神社の最大の特徴は北東に位置する日岡陵古墳のある日岡山だろうと思う。
日岡山は古代信仰の中心だったようだ。
現在でも日岡山公園内には、先土器時代の遺跡を始め、古墳時代前期~後期の古墳が多数点在している。
その中でも播磨稲日大郎姫命の御陵といわれる古墳(中期の前方後円墳)があり宮内庁により第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。
加古川町大野だけでも下記の遺跡や古墳がある。
日岡山遺跡・美乃利遺跡・大野遺跡・日岡遺跡・広沢山遺跡
東車塚古墳・狐塚古墳・勅使塚古墳・ひれ墓古墳・西車塚古墳・南大塚古墳・西大塚古墳・日岡山壷棺墓
兵庫県考古博物館資料による。

日岡神社のご祭神は、天伊佐々彦命、(配祀)豊玉比賣命・鵜草葺不合命・天照皇大御神・市杵島比売命。
ご祭神の天伊佐々彦命は、第7代孝霊天皇(BC290年~BC215年、諸説あり)の皇子で吉備津彦命(きびつひこのみこと)とも言われる。
四道将軍の1人で、崇神天皇の時代(BC97年~BC30年、諸説あり)西道に派遣された。
ちなみに天伊佐々彦命の御陵は大吉備津彦命墓(岡山市北区)にある。
その天伊佐々彦命が第12代景行天皇(71年~130年、諸説あり)の皇后である播磨稲日大郎姫命が双子(大碓命、小碓命)を身ごもった際に安産を祈願した、小碓命は後の日本武尊(やまとたけるのみこと)。
背後の日岡陵は宮内庁により天伊佐々彦命が安産を祈願した播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。
播磨稲日大郎姫命は印南別嬢(いなびのおおいらつめ)であるとも言われる。
ここまでを見ると大和朝廷の色合いが濃いものとなっており古代のある時期における大和朝廷の勢力圏の西の端という印象がある(個人的見解です)。
というのはここから西の姫路あたりは伊和大神の色合いが濃い印象だからだ。
大和朝廷がここから西への拠点としたのではないだろうか。

日岡神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
鎮座する日岡山自体が日岡山公園となっており、これを目指していけば到着する。
国道2号線(加古川バイパス)の加古川出口より北東へ兵庫県道18号加古川小野線を1.5kmほど。
日岡山公園の案内があるので東へ入って150メートルほどの交差点より日岡神社の案内があるので北東へ入る。
130メートルほどで山門前に到着する、山門脇とさらにその奥にも駐車場完備。
山門より南西へ320メートルほどの場所に鳥居がある。

日岡山公園は規模が大きく、古墳があるエリアと運動公園のエリアがありアプローチは南と北から可能。
まずは山門より南西へ320メートルほどの場所に鳥居をくぐると比較的道幅が狭くてなんとなく門前町のような雰囲気が残っている。
山門の横を通るとありがたいことに駐車場がある、さらに右側奥にも大きな駐車場がある、クルマを駐車しやすい。
JR加古川線の日岡駅からもすぐなので現代でも交通便利な場所にある。
山門の右奥には居屋河原日岡神社(大鳥居神社)が鎮座している。

山門を抜けると駐車場、正面には大きな石灯籠が左右にあり参道が続いている。
石灯籠を過ぎ進んでいくと少し低くなっているのが分かる。
拝殿前の広場には右手に社務所、左手に回廊がある、いずれの建物もコンクリート製となっている。
広場から見て拝殿と本殿は山の斜面にあり見上げるような形となる。
階段を登ると割拝殿のような休憩所のようなコンクリート製の建物がありベンチが設置してあり自由に腰掛けることができる。
さらに高い位置にある拝殿はコンクリート製で非常に大きく立派な作り。
拝殿の後方には幣殿と本殿が山の斜面を利用して段々に作られている。
この段々には右側に多数の建物がある、また左側には摂社末社が多数祀られている。
建物はコンクリート製で味気ないが手入れの行き届いた大いに地域に愛されている神社だと感じた。
人口減少が叫ばれる昨今、大いにご神徳を感じる神社だった。

大和朝廷が色濃く残る西への拠点となる神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2023/8/11
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7S3 + FE16-35mm F2.8 GM、α7M3 + 35-150mm F2-2.8 Di III VXD