318-060_(論)佐保神社(加東市社)

比定社:(論)佐保神社(加東市社)

式内社コード:318-060
神名帳社名 :坂合神社、サカヒノ
社    格:小
所 在 地 :673-1431 兵庫県加東市社777
Plus Code  :WX87+CV 加東市、兵庫県
 〃 鳥居 :WX92+MQ 加東市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「さほじんじゃ」と読む、地名の加東市東実は「かとうしやしろ」と読む。
国道175号線「社総合庁舎前」交差点を東に入り700メートルほど直進。
兵庫県道567号東古瀬穂積線との交差点「社」を過ぎてすぐ左(北)へ入ると神社前に到着。
クルマは山門脇から境内へ入り駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

社の町は佐保神社を中心に出来上がったところ。

写真

(論)佐保神社(加東市社)を正面より望む。社域は南面しており入口には立派な瑞神門がそびえている。扁額には佐保社とある。
(論)佐保神社(加東市社)を正面より望む。社域は南面しており入口には立派な瑞神門がそびえている。扁額には佐保社とある。
瑞神門の脇には社標、縣社佐保神社とある。周りは立て込んでいるが江戸時代の町並みのよう。広場には社標の奥から入り駐車することができる。
瑞神門の脇には社標、縣社佐保神社とある。周りは立て込んでいるが江戸時代の町並みのよう。広場には社標の奥から入り駐車することができる。
瑞神門の前より正面を望む。参道が長く続いているのかと思ったらそうでもないようだ。
瑞神門の前より正面を望む。参道が長く続いているのかと思ったらそうでもないようだ。
瑞神門の前にある神社謹製の佐保神社由緒。周辺は「佐保社村(さほのやしろむら)」と呼ばれ、当神社の門前町として発達してきた、とある。
瑞神門の前にある神社謹製の佐保神社由緒。周辺は「佐保社村(さほのやしろむら)」と呼ばれ、当神社の門前町として発達してきた、とある。
瑞神門をくぐると社殿前の広場、眼の前には舞殿のような能舞台がある。ありがたいことにクルマはこの広場に乗り入れて駐車可能。
瑞神門をくぐると社殿前の広場、眼の前には舞殿のような能舞台がある。ありがたいことにクルマはこの広場に乗り入れて駐車可能。
瑞神門をくぐって左手には手水舎、播磨に多い井戸併設型。
瑞神門をくぐって左手には手水舎、播磨に多い井戸併設型。
拝殿を正面より望む。かなり立派な拝殿、社域にはたくさんの建物がある。
拝殿を正面より望む。かなり立派な拝殿、社域にはたくさんの建物がある。
拝殿前の広場の右側を望む。広場に乗り入れて駐車可能。神庫の右奥の建物が社務所。
拝殿前の広場の右側を望む。広場に乗り入れて駐車可能。神庫の右奥の建物が社務所。
広場の左から拝殿を望む。拝殿の後方に見えないが幣殿、その後ろに本殿がある。社域には非常にたくさんの建物がある。
広場の左から拝殿を望む。拝殿の後方に見えないが幣殿、その後ろに本殿がある。社域には非常にたくさんの建物がある。
拝殿を望む。扁額には佐保社とあり、賽銭箱には重ね三階菱のご神紋。
拝殿を望む。扁額には佐保社とあり、賽銭箱には重ね三階菱のご神紋。
拝殿内部を望む。
拝殿内部を望む。
拝殿と後方の幣殿、そして本殿を右側より望む。社殿には組物彫り物が施されていてかなり豪華な作り。
拝殿と後方の幣殿、そして本殿を右側より望む。社殿には組物彫り物が施されていてかなり豪華な作り。
拝殿右手にある社務所。
拝殿右手にある社務所。
本殿を右側より望む。残念ながら木の垣に囲まれており近づけない。
本殿を右側より望む。残念ながら木の垣に囲まれており近づけない。
本殿の扁額には佐保大明神とある。
本殿の扁額には佐保大明神とある。
本殿を左側より望む。
本殿を左側より望む。
本殿の左手には明神殿という建物。
本殿の左手には明神殿という建物。
広場の左手にある摂社末社。社域の西側は高台になっていて見渡すことができる。かつては加古川まで(1.8kmほど)見渡せたのではないだろうか。
広場の左手にある摂社末社。社域の西側は高台になっていて見渡すことができる。かつては加古川まで(1.8kmほど)見渡せたのではないだろうか。
能舞台より瑞神門を望む。神仏習合が色濃く残る。
能舞台より瑞神門を望む。神仏習合が色濃く残る。

感想


神社謹製の佐保神社由緒によると

 当神社の始まりは、第十一代垂仁天皇二十三年の創建と伝えられていますが、この当時は
加西の鎌倉峰に鎮座されていました。
 その後、養老六年(七二二年)に現在地に遷座され、延喜式にも所載の個社であります。
 当時に遷座された頃は「坂合神社」と呼ばれておりましたが、いつの頃からか「佐保神社」
と称されるようになりました。
 鎌倉時代には、調停や幕府の崇敬を集め隆昌を誇り、尼将軍として有名な北条政子は、八
丁四方に内の鳥居、一里四方に外の鳥居を造営させました。
 今でも、その中の一基(西の内の鳥居)は加東市鳥居地区に、地名と共に残っております。
 室町期に入り、度々の騒乱により一時荒廃いたしましたが、江戸時代に至って姫路城主池
田輝政公の祈願所として社領十石を寄せられ、さらに幕府より御朱印社領十石を賜るなど、
ようやく復興いたしました。
 また明治時代になり、官国幣社に次ぐ近郷唯一の県社の社格を付与されました。
 なお、旧加東郡社町の名は往古より「佐保社村(さほのやしろむら)」と呼ばれ、当神社の門前町として発達し
てきたことに由来し、北播磨の雄として栄えてまいりました。
 現在の本殿は、永淳四年(一七四七年)に再建されたもので、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)正面千鳥破風(ちどりはふ)・
銅板葺で、幣殿・拝殿・瑞神門(ずいしんもん)とともに、華麗な彫刻で飾られています。

 御祭神は 東殿(向かって右) 天照大神(あまてらすおおみかみ)
      中殿(中央)    天児屋根命(あめのこやねのみこと)
      西殿(向かって左) 大己貴命(おおなむちのみこと) の三神であります。

 この他境内神社には、恵比寿神社・諏訪神社・八幡神社・神明神社・愛宕神社・金比羅
宮・稲荷神社・先宮社(さきのみや)・天神社などがあります。
 また境外末社として若宮社がります。
 佐保神社

とある。


佐保神社Webサイトによると

佐保神社について
 (旧縣社)
 佐保神社

 兵庫県加東市社777番地鎮座
 (旧 兵庫県加東郡社町社777番地)

御祭神
 中殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 神紋 (三階菱)サンガイビシ
 東殿 天照大神 (あまてらすおおみかみ)  神紋 (五三の桐)ゴサンノキリ
 西殿 大己貴命(おおなむちのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと)と同じ 神紋 (左三つ巴)ヒダリミツドモエ

御社名
 当社はもと坂合(さかあい)神社と呼ばれていました。
 醍醐(だいご)天皇の朝に藤原時平、忠平等が勅を奉じて選定した延喜式(えんぎしき)の神名帳には、播磨國賀茂郡(かものこおり(今の小野加東加西の三市に当たる))の官社八座の中に、坂合神社と載せてあります。
 この社名がいつ頃に現在の「佐保神社」となったかは詳しいことはわかりません。
 この神社にちなむ「佐保社郷(さほのやしろごう)」という荘園名から「やしろ」の名が起こったといわれています。
 また鳥居(とりい)地区の石鳥居はかつての西の内の鳥居であり当時の社域をとどめています。

御由緒
 垂仁(すいにん)天皇二十三年の創建と伝えられていますがこの当時は加西の鎌倉峰(かまくらのみね)に鎮座されていました。
 のち奈良時代の初め養老(ようろう)六年(722年)に阿部野三郎太夫(あべのさぶろうだいふ)という翁に神託があり現在の場所にお遷うつし申し上げたとのことです。
 それ以来当社は郡内(旧加東郡内)のみならず播磨でも著名な神社として深い信仰を集めてまいりました。とりわけ鎌倉時代には尼将軍として有名な北条政子が当社を崇敬し、本殿の再建と四方内外に檜造りの鳥居八基を建立(こんりゅう)させていることからもその様子がうかがえます。
 なお現存する鳥居はありませんが西の内の鳥居は石造りに変わり約 1.2km西の道路脇に残存しており、「鳥居」という地名はこれに由来します。
 しかし戦国時代の争乱により社領は荒廃し天文十六年(1547年)には火災にあい神殿すべてが消失しました。
 その後永禄七年(1564年)に新殿を再建しましたが昔日の壮観はついに望むことができなくなったといわれています。
 また江戸時代には代々将軍家より朱印状(しゅいんじょう)をいただき社領十石を賜り、明治維新を経て明治十四年(1881年)縣社(けんしゃ)に指定されました。なお、戦後この制度 は廃止されました。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、天児屋根命・天照大神・大己貴命。

垂仁天皇23年(紀元前7年諸説あり)4月創立(追記)。
養老6年(722年)3月現在地に遷座。
建保6年(1218年)正一位。
天文16年(1547年)火災消失。
永禄7年(1564年)10月造営。
延享4年(1747)再建(追加)。
明治6年(1873年)11月郷社。
明治14年(1881年)12月県社。
明治44年(1911年)3月神饌幣帛料供進神社指定。

当初は鎌倉峯に鎭座。

当社は初め境あるいは坂合と称えたが、のち佐加穗(サカホ)又は佐加袁(サカヲ)になり、更に現在の佐保又は佐袁(サヲ)に変つたという。
むしろ東実の佐保神社の分社であつたが交通路の変遷や、門前町の集落の巨大化にともなつて分社が大きくなり、遂には本社を圧倒する程成長して、本社、分社の関係が転倒したものと思われる。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:佐保明神(サホミョウジン)
配祀神:天照皇大神(アマテラシマススメオオカミ)・天兒屋根命(アメノコヤネノミコト)・大己貴命(オオナムチノミコト)

由 緒:
 垂仁天皇23年(紀元前76)の創建と伝えられていますが、この当時は加西の鎌倉峰に鎮座されていました。後、奈良時代の初め養老6年(722)に神託を受けた阿倍野三郎太夫という翁に神託あり、現在の場所にお遷し申し上げたとのことでです。
 とりわけ鎌倉時代には尼将軍として有名な北条政子が当社を崇敬し、本殿の再建と四方内外に檜木造の鳥居八基を建立させていることからも、その様子がうかがえます。
 なお、当時のまま現存する鳥居はありませんが、西の内の鳥居は石造りに変わり、現在も社町鳥居地区に残っており、もちろん「鳥居」という地名はこのことに由来します。
 しかし、戦国時代の争乱により社領は荒廃し天文16年(1547)には火災に遭い神殿すべてが焼失しました。その後、永禄7年(1564)に神殿を再建しましたが、昔日の壮観はついに望むことができなくなったといわれています。
 なお、現在の建物は延享4年(1747)に再建されたものです。
 また江戸時代には、代々将軍家より朱印状をいただき社領十石を賜り、明治維新を経て明治14年(1881)県社に指定されました。

とある。


延喜式神名帳の播磨国・賀茂郡「坂合神社」の論社のうちの一つ。

(論)佐保神社(加東市社)のある当地は、北に千鳥川、西に加古川が流れ、街道筋が東西南北に通る交通の要衝となっている。
現在では加東市の中心部にあたり役所や学校も周囲にある、交通路も高速道路や国道が複数交差する。
周囲には次のような遺跡がある、社・大塚遺跡、社・澤遺跡、社条里(兵庫県考古博物館資料による)。
遺跡の数のみで判断するのは難しいが、この地が開けたのは中世以降(平安時代以降か?)のことだと思われる(個人的見解です)。
加東市社の「社(やしろ)」は(論)佐保神社(加東市社)のお社を指すと言われている。

(論)佐保神社(加東市社)のご祭神は、天児屋根命・天照大神・大己貴命。
「延喜式神社の調査」には(論)佐保神社(加東市東実)が最初で、(論)佐保神社(加東市社)が分社とのことも書かれているのが興味深い。
ご祭神についても少しだけ表記が異なり(論)佐保神社(加東市社)では天照大神、(論)佐保神社(加東市東実)では比売大御神の違いがある。

(論)佐保神社(加東市社)へのアプローチは分かりやすい。
国道175号線「社総合庁舎前」交差点を東に入り700メートルほど直進。
兵庫県道567号東古瀬穂積線との交差点「社」を過ぎてすぐ左(北)へ入ると神社前に到着。
ありがたいことにクルマは瑞神門脇から境内へ入り駐車可能となっている。

(論)佐保神社(加東市社)へ南からアプローチすると正面に瑞神門が見えてくる。
瑞神門はかなり立派で扁額には佐保社、屋根には重ね三階菱・五三の桐・左三巴のご神紋が並ぶ。
周囲は住宅や商店が多く、いかにも門前町という風情で江戸時代にタイムスリップしたような感覚がある。
瑞神門をくぐると広場、広場には舞殿のような形式の能舞台がしつらえてある。
社域はどこが境界なのか分かりにくいが、かなり広く感じるのでかつては広大な社域だったのだろう。
社伝によると、鎌倉時代に北条政子(1157~1225年)の命で八丁四方に内の鳥居、一里四方に外の鳥居を造営させたとある。
(里は時代により異なるようで中世の一里は概ね600メートル前後と言われている)
加東市鳥居地区に今でもその中の一基(西の内の鳥居)が地名と共に残っているそうだ(西へ1.2kmほどの場所)。
当時の有力社寺は現代の我々が想像もつかない強大な力を持っていたのだと思われる。
さらに進むと立派な拝殿が見えてくる、全体的に神社というよりも寺のような雰囲気がある。
拝殿の後方には幣殿、さらに垣に囲まれた本殿となっている。
記録には延享4年(1747)再建とある、全体的に建物の状態は良いようだ。
本殿には佐保大明神の扁額がかかっており組物や彫り物が施されていて豪華な作り。
社域はきれいに整備されていて気持ちよく参拝できる。

町の中心になっているということが実感できる神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/10/14
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3