比定社:林神社(明石市)
式内社コード:308-060
神名帳社名 :林神社、ハヤシノ
社 格:小
所 在 地 :673-0031 兵庫県明石市宮の上5‐1
Plus Code :MX29+VW 明石市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「はやしじんじゃ」と読む、地名の明石市宮の上は「あかししみやのうえ」と読む。
国道2号線の川崎町交差点を南下500メートルほどで神社の西側入口からクルマを乗り入れ駐車可能。
鳥居は南側にある。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索1】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
明石という地名発祥の神社
写真
感想
林神社のWebサイトによると
[御祭神]
少童海神(ワタツミノカミ)
彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)
豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
葺不合尊(フキアエズノミコト)
玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
御崎大神(ミサキノオオカミ)
[由緒]
往古、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神が顕れ給うが、人皇十三代成務天皇八年風波のため、赤石は海中に没した。
よって翌九年(西暦139年)正月、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。
一条天皇寛弘二年(1005年)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の四柱を合祀し上宮五社大明神と号す。
明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。
明治十四年(1881年)県社に列せられる。
太古より海を見おろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所明石海峡を行き交う舟の安全を見守り給う明石で最も歴史ある神社である。
[明石の地名の起源]
当社ゆかりの「赤石」から明石の地名が起こったことは広く知られるところである。
平城天皇(御在位806~809年)当社に行幸、赤石を展覧し給う。
羽柴(豊臣)秀吉公、天正九年(1581年)参拝、舟より赤石を観覧。
[雨乞い・立石の井]
延喜二十二年(922年)旱魃(かんばつ)あり、勅命により雨を祈願し霊験あり。
以後雨乞社と称えられ、官民の尊崇をうける。
寛政六年(1794年)、旱魃の折、雨を祈るに神験あり。
昔、海中の大鱆(おおだこ)が岸崎の二人の后を悩ませていた。浮須三郎左衛門という人が退治すると鱆は山伏と化し、なおも追いかけ四つに切ると山伏は石に姿を変えた。立石の井筒の石はこれであると伝わる。
当社東方の谷にあり清水がこんこんと湧き出ずる名水であったが、近年付近の宅地化が進み往時の水質水量はない。
[式内社]
平安初期の国家の法制書「延喜式」の神名帳に記載された当時の官社3132座を(延喜)式内社という。
延喜式巻第十に播磨国明石郡(こおり)・・・林神社一座(はやしのかみのやしろ)とある。
とある。
神社謹製の「當社由緒」によると
祭神
少童海神 彦火々出見命 豊玉姫命
葺不合尊 玉依姫命 御崎大神
由緒
古少童海命當所海浜の赤岩の上に現れ給
う其石成務天皇八年8月波の為海に没す
翌九年元旦社を建て同神を祀る
延喜二二年夏雨乞に験あり之より雨乞社
と稱す寛弘二年彦火火出見命他三神を合
祭し上宮と稱す江戸時代上宮五社大明神
と仰ぎ明治維新林神社と復稱す同十四年
二月縣社に列す昭和二十年戦災にて全焼
同年舟上御崎神社を合併假殿創立
昭和二十五年社殿同三十三年社務所再建
同四十年石垣玉垣を建設す
昭和四十年四月吉日
林神社
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、少童海神・彦火火出見命・豊玉姫命・葺不合尊・玉依姫命
(合祀)大日靈命・豊受皇大神・須佐男命・神功皇后・応神天皇。
成務天皇9年(139年)正月6日創祀。
允恭天皇14年(425年)9月刺海士男挾磁を合祀。
允恭天皇31年(442年)3月九日社殿再建。
皇極天皇2年(643年)2月28日社殿修理。
神亀3年(726年)9月15日社殿修理。
延喜7年(907年)3月3日社殿修復。
延喜23年(923年)旱天の爲祈雨、霊験あり雨乞社と称。
寛弘2年(1005年)9月4日彦火火出見命以下四柱を合祀して上宮五社明神と号。
嘉保元年(1094年)造営。
建久6年(1195年)造営。
永禄2年(1559年)造営。
文政9年(1826年)造営。
明治7年(1874年)2月郷社。
明治14年(1881年)県社。
大正5年(1916年)4月11日神饌幣帛料供進神社指定。
昭和20年(1945年)明石空襲により焼失。
江戸時代までは、「森イ明神」「青龍五社大明神」「上宮五社大明神」と呼ばれていた。
往古少童海命が当地林崎の海浜の赤石(明石の地名はこの赤石に始まると云う)の上に現われたが、成務天皇8年戊寅秋8月風波の爲赤石が海中に没した。よつて翌9年春正月6日一社を建てて祀つたのが始まりである。
当社創祀に始まる赤石は、林崎の海中、岸より7~8間の処にあつて、大きさは4~5尺四方である。その色は赤く、只旧暦3月3日の大潮の日のみ海中にすかしみることが出来るという。
本殿の東約100mの住宅地の奥まったところに「立石の井」がある。
とある。
兵庫県神社庁によると。
主祭神:少童海命(ワタツミノミコト)
配祀神:彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・葺不合尊(フキアヘズノミコト)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)・御崎大神(ミサキノオオカミ)
祭記事:
1月 1日 歳旦祭
4月 3日 春祭 湯立神事
7月14日 夏祭 茅の輪くぐり
10月15日に近い日曜日 例祭、神輿巡幸
由緒:
往古、当地海浜の巨大な赤石の上に、少童海神が顕れ給うが、人皇13代成務天皇8年、風波のため赤石は海中に没した。よって翌9年(139)、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられ、明石最古の神社である。
一条天皇寛弘2年(1005)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の四柱を合祀し、上宮五社大明神と称す。
明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。
明治14年(1881)、県社に列せられる。
とある。
林神社のある当地は、明石林崎漁港より北へ600メートルほどの小高い丘になっている場所。
かつては海岸からまっすぐ参道が伸びていたのだろうと思われる。
社伝によれば林崎の海浜の赤石に少童海命が顕れたことが始まりのようだ。
その後、赤石は海中に没してしまったので社殿を建て少童海命をお祀りしたと伝わる。
その赤石が明石の地名の元になっているということだ。
やはり何らかの形で海と関わりのある神社となっている。
周囲には、宮の上遺跡・宮の上遺跡第2地点(兵庫県考古博物館資料による)がある。
林神社のご祭神は、少童海神・彦火々出見命・豊玉姫命・葺不合尊・玉依姫命・御崎大神。
林神社へのアプローチは比較的簡単だ。
国道2号線の川崎町交差点を南下すると500メートルほどで神社の西側入口がある。
ありがたいことに、そこからクルマを社域に乗り入れ駐車可能となっている。
社域は小高い丘となっていて鳥居は南側の少し低い位置にある。
大タコ退治のお話が伝わる立石の井が東側の谷間にあるようだが残念ながら未訪問。
南側の鳥居のあたりから見ると社域は小高い丘になっていることが分かる。
かつては鳥居前から南へ海へ向かって参道が延びていたのだろうと想像する。
周囲は住宅街で人家に囲まれている地域。
鳥居をくぐり石段を上がると拝殿前の広場に出る。
広場の右手には社務所や手水舎、左手には倉庫があり保育園が併設されている。
拝殿は横に間口が大きく立派な作りとなっている。
その奥の本殿は石の垣で囲まれ木々が生い茂って残念ながら見ることができない。
社域にはたくさんの建物があり、非常に清浄に保たれているのが印象的だ。
鎮座地の明石の地名の元になった神社。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日 :2024/9/15
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7S3 + FE 20-70mm F4 G
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。