318-030_石部神社(兵庫県加西市)

比定社:石部神社(兵庫県加西市)

式内社コード:318-030
神名帳社名 :石部神社、イソヘノ
社    格:小
所 在 地 :675-2434 兵庫県加西市上野町69-2
Plus Code  :XV27+W8 加西市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「いそべじんじゃ または いしべじんじゃ」と読む、地名の加西市上野町は「かさいしうえのちょう」と読む。
兵庫県道145号下滝野市川線に面しており背後はこんもりと木々の茂る皇塚古墳なのですぐに分かる。神社前と東側にも駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

石部神社門杉の存在感。

写真

石部神社(兵庫県加西市)を正面より望む。最近改修が行われ非常にきれいな状態。
石部神社(兵庫県加西市)を正面より望む。最近改修が行われ非常にきれいな状態。
右側(東)を望む。前の道は兵庫県道145号下滝野市川線、周囲は田畑と住宅。
右側(東)を望む。前の道は兵庫県道145号下滝野市川線、周囲は田畑と住宅。
正面(南)を望む。この先100メートルほどに一の鳥居がある、チラッと見えている。
正面(南)を望む。この先100メートルほどに一の鳥居がある、チラッと見えている。
左側(北)を望む。
左側(北)を望む。
兵庫県・加西市・(社)兵庫みどり公社 謹製の「石部・庚申の杜 石部」。この地図によると背後の皇塚古墳はかなり大きな円墳なのだろうか、被葬者が気になるところ。
兵庫県・加西市・(社)兵庫みどり公社 謹製の「石部・庚申の杜 石部」。この地図によると背後の皇塚古墳はかなり大きな円墳なのだろうか、被葬者が気になるところ。
加西市播磨国風土記1300年記念事業謹製の「播磨国風土記ゆかりの地」。このあたりは鴨里と呼ばれていたとある。賀茂氏との関係も気になるところ。
加西市播磨国風土記1300年記念事業謹製の「播磨国風土記ゆかりの地」。このあたりは鴨里と呼ばれていたとある。賀茂氏との関係も気になるところ。
注連柱をくぐると巨木が2本聳えている。石部神社門杉という名称で存在感抜群だ。
注連柱をくぐると巨木が2本聳えている。石部神社門杉という名称で存在感抜群だ。
加西市教育委員会謹製の石部神社門杉と皇塚古墳の説明書き。門杉は鎮座直後に記念樹としてこの杉を植えたとある。
加西市教育委員会謹製の石部神社門杉と皇塚古墳の説明書き。門杉は鎮座直後に記念樹としてこの
杉を植えたとある。
手水舎。播州地方によくある井戸併設タイプ。
手水舎。播州地方によくある井戸併設タイプ。
門杉は内部が黒くなっており落雷で燃えたのだろうか。創建時に植えられたものだとすると今を2024年とすると樹齢1305年ということになる。
門杉は内部が黒くなっており落雷で燃えたのだろうか。創建時に植えられたものだとすると今を2024年とすると樹齢1305年ということになる。
石段を上り門杉を越えると社殿前の広場となる。石垣や垣が真新しい。
石段を上り門杉を越えると社殿前の広場となる。石垣や垣が真新しい。
社殿前広場の右側を望む。
社殿前広場の右側を望む。
社殿前広場の左側を望む。ブルーシートが興ざめだが、たぶん土俵があるのだろう。
社殿前広場の左側を望む。ブルーシートが興ざめだが、たぶん土俵があるのだろう。
拝殿を左側より望む。非常に大きく立派な作り。
拝殿を左側より望む。非常に大きく立派な作り。
神社謹製の石部神社由緒記。皇女崩御の際の御遺言により、宮島の厳島神社より御祭神を勧請してこの地に神社を創建したとある。
神社謹製の石部神社由緒記。皇女崩御の際の御遺言により、宮島の厳島神社より御祭神を勧請してこの地に神社を創建したとある。
拝殿は腰板の付いたフルオープン形式、幣殿との間にガラス戸があり珍しい形式だ。この建物は絵馬殿なのかもしれない。
拝殿は腰板の付いたフルオープン形式、幣殿との間にガラス戸があり珍しい形式だ。この建物は絵馬殿なのかもしれない。
拝殿には多数の奉納額が飾ってある。
拝殿には多数の奉納額が飾ってある。
拝殿よりガラス戸越しに内部を望む。きれいに整理されているのが分かる。
拝殿よりガラス戸越しに内部を望む。きれいに整理されているのが分かる。
拝殿後方の幣殿と本殿を望む。
拝殿後方の幣殿と本殿を望む。
本殿を右側より望む。風雨よけのためのガラスがあるが本殿の様子を見ることができる。
本殿を右側より望む。風雨よけのためのガラスがあるが本殿の様子を見ることができる。
本殿の右側には皇塚古墳への小径がある。
本殿の右側には皇塚古墳への小径がある。
本殿を左側より望む。
本殿を左側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿より門杉を望む。
拝殿より門杉を望む。

感想


兵庫県・加西市・(社)兵庫みどり公社 謹製の「石部・庚申の杜 石部」によると

ツツジの丘へようこそ
 「石部の杜」は、石部神社の神域となっています。
頂上には加西市指定文化財の「皇塚古墳」があります。

 丘の上には「コバノミツバツツジ」や「モチツツジ」と
いった野生のツツジが生えています。春にはピンク色の花
をいっぱい咲かせます。また、植林の中では「カギカズラ」
という兵庫県では非常に数の少ない植物も見つかっていま
す。

 小道の陽の当たる場所には、きれいな色合いの「ハンミョウ」
がたくさんみられます。注意してみると、まわりのため池と
竹林を行き来する「ナニワトンボ」や「カトリヤンマ」とい
うめずらしいトンボをみることができるかもしれません。

 丘には散策路の入口がいくつかあり、竹林をぬけると、明
るいツツジの林を周りながら頂上へ登るコースになってい
ます。頂上をめざして散策を楽しんでください。

とある。


加西市播磨国風土記1300年記念事業謹製の「播磨国風土記ゆかりの地」によると

『播磨国風土記』は、奈良時代初期の和銅6年(713)年5月の官令により作成が命じられた地誌
で、715年頃に編纂されたものと見られています。この日本最古の地誌である『播磨国風土記』
には、地名の由来や土地の伝承、土地の肥沃さなどが記されており、当時の生活や文化、自然、人
やものの移動など、様々なことをうかがい知ることができます。加西市は、賀毛郡に含まれ、ゆか
りの地が多く登場しています。

13鴨里
 『播磨国風土記』に鴨里は、郡名と同じ名称で由来も郡名と同じとあります。また、里の中でも
最初に記述されているので、賀毛郡の中心的な里だったのかもしれません。鴨里は当初は一つの里
でしたが、後に上鴨里・下鴨里の二つの里に分けられたとあります。里は50戸(1戸は20人程度
集団生活)で1里と決められているので、1つの里が2つの里になったということは、急激に人口
が増えるような出来事があったのかもしれません。
 賀毛郡へ巡幸(じゅんこう)した応神天皇(おうじん)は、修布(すふ)の井の脇に止まった鴨を見て「何の鳥だ」と従者に質問
します。従者の品遅部君前玉(ほむちべきみさきたま)は「川に住む鴨です」と返答します。天皇が「射よ」と命じ従者の放
った一本の矢は、二羽の鴨に当たります。矢を受けた鴨は飛んで逃げようとしますが、途中で力尽
きます。
 この伝承は、二つの里を象徴するような二羽の鴨が、天皇の命令で一本の矢で射られるなど、上
下鴨里も支配に関連する伝承と考えられます。鴨が木に止まることや、一矢が二羽に当たることは、
とても珍しいことであり「奇瑞(きずい)」といえます。こうした奇瑞は、土地の神霊がこの支配を認めたと
解釈され、ここでは応神天皇による鴨里支配の正当性を示していると読むことも出来ます。

皇塚古墳
石部神社(いそべ)神社裏山の山頂にある皇塚古墳(こうづか)は、伝承では
神社創建と同じ養老元年(717)頃に築かれた、元正天皇皇女
の墓とされています。実際の古墳は6世紀前半に築造されて
いるので、人々が神社の創建前から、この地を大切にしてい
たことがうかがえます。

平成26年3月 加西市播磨国風土記1300年記念事業

とある。


加西市教育委員会謹製の説明書きによると

市指定文化財 石部神社門杉(いそべじんじゃもんすぎ)
 石部神社門杉は境内の石段登り口に立つ2本の大杉です。この大杉は東西と
も、根回り約5m、高さ約30mの大木で、その位置から門杉と呼ばれています。
 石部神社は、719年(養老3年)鎮座と伝えられ、鎮座直後に記念樹としてこの
杉を植えたという伝承があります。

市指定文化財 皇塚古墳(こうづかこふん)
 皇塚古墳は、石部神社の背後にそびえる標高149mの丘陵頂上部に作られた古
墳時代後期(6世紀前半)の円墳です。墳丘はその形をよく留めており、古墳の
規模は径約20m、高さ約2mです。古墳のある頂上からは周辺地域を一望でき
ることから、被葬者はこの地域一帯を統治した人物などの可能性が考えられます。

加西市教育委員会

とある。


神社謹製の石部神社由緒記 によると

祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
   田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津媛命(たぎつひめのみこと)

由緒 奈良朝元正天皇の養老元年 皇女勅を奉じて安芸
國宮島に御参詣 護衛の近士七〇余名 他に宮人多数を
従えて宮島に御到着 三七夜の御祈祷も了えられ
海路帰途につかれたが、折悪しく暴風海波甚だ荒く
航行至難、皇女のお疲れ又一方ならず。ために播州室
津の湊に上陸された。此処に三日間御静養の後陸路を
とって播州賀茂郡船岡の辺を啓御されたが、その頃
皇女の御疲労再び重く、里人に仮殿を造らせて療養に
努められたが、御容体安からず遂に崩御せられる。
 この由上聞に達し勅使の御下向あり三津山(宮山)の山
頂に埋葬せられた。今も山頂に古墳があり、之を皇塚
と言う。
 皇女崩御の際の御遺言により、宮島の厳島神社より
御祭神を勧請してこの地に神社を創建し奉斎された。
 石部神社鎮座記より

沿革 本神社は養老三年三月の創建にして、当時神式に
は、畏くも勅使の御参向があり醍醐天皇の延喜年間
式内社として神名帳にも記載され、又徳川将軍家の崇敬
厚く、慶安二年徳川家光社領朱印五石を寄進し
境内山林の諸役を免ぜられた。
明治七年二月郷社に列し、昭和二十一年十月兵庫
県知事より「県社に当然列格せらるべきものたりしこと
を認む」との県指令を受けている。
 昭和四十五年十月吉日

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命。

養老3年(719年)3月芸州宮島より勧請。
慶安2年(1649年)8月徳川家光社領朱印五石を寄進。
寛延年間(1748~1751年)の火災で焼失。
明治6年(1873年)11月郷社。
明治45年(1912年)3月神饌幤帛料供進神社指定。
昭和21年(1946年)10月20日附で県社昇格の認知。

神社裏山(宮山(みやま))に皇塚と呼ばれる古墳があり、埋葬者を神聖視して創立の話にむすびつけたと思われる。これは古墳前期のものとされており、山頂円墳であるので弥生時代には祭祀が行なわれていたかも知れない。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)
配祀神:田心姫命(タゴリヒメノミコト)・湍津姫命(タギツヒメノミコト)

由 緒:
 養老3年(719)、宮島より勧請。養老元年(717)元正天皇の皇女勅を奉じて宮島の厳島神社へ参詣され、37日21夜の祈祷を終えられ海路ご帰還の砌り風波強くご遭難甚しく播州室津に上陸。この地に至りご静養せられしも遂に崩御遊ばされたるを以って、里人等は三津山の山頂に御葬り奉り同山腹の地に神社を創建し、皇女崩御の際「身が守護神は伊知岐島姫命なり、これを迎えて此の地の産土神と崇め祀れ」とご遺言遊ばされたるにより、そのご遺言を体し宮島のご分霊を勧請し産土神として奉斎し、そのご神徳を仰ぎ奉れるものと伝えられる。
 「式内社」として神名帳にも所載せられ慶安2年徳川将軍家光社領朱印5石を寄進し、境内山林竹木の諸役を免除され爾来将軍家の崇敬厚く、維新まで続いたが、明治元年(1868)還納。
 鎮座地の在田郷は播州赤穂浅野家の領地であったため、浅野家の崇敬亦格別であった趣で、正保年間(1645~1648)浅野長直公巡歴の際、本神社及び神護寺の為に特に添挙状を書かれ将軍家へ差し出される等の事あり、現在拝殿正面に揚出されている黒馬の額は浅野家の献納と伝えられる。
 明治7年(1874)、郷社に列せられる。

とある。


石部神社(兵庫県加西市)のある当地は、、加西市から北西へ市川町へ抜ける釜坂峠の街道筋に当たる場所。
満願寺川が流れる平野部を北から見渡す場所にある小高い山(皇塚古墳)の山裾に南面して鎮座する。
早くから開けた場所のようで周囲には、殿原北方遺跡・朝垣遺跡・皇塚古墳・池ノ下古墳(石部神社前古墳)がある(兵庫県考古博物館資料による)。

石部神社(兵庫県加西市)のご祭神は、市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命(嚴島神社と同じ)。
記録によると、養老3年(719年)に宮島より勧請されたとある。
これには物語が伝わっていて、養老元年(717年)元正天皇の皇女勅を奉じて宮島の厳島神社へ参詣された帰りに皇女が体調を崩された。ついに崩御されこの地に葬られたのが背後の皇塚古墳というお話だ。
現在、皇塚古墳の被葬者は判っていないのだがこういったお話が伝わっているのは非常に興味深い。
現在の石部神社(兵庫県加西市)の場所は海沿いでもなく、大きな街道筋のそばでもないのでどうしてこの場所を宮島への帰路に通ったのだろうかということは疑問として残る。

石部神社(兵庫県加西市)へのアプローチは非常に分かりやすい。
兵庫県道145号下滝野市川線に面しており背後はこんもりと木々の茂る皇塚古墳なのですぐに分かる。
ありがたいことに神社前と東側にも駐車場がある。

石部神社(兵庫県加西市)は最近改修が行われたようで非常にきれいな状態。
注連柱の前は兵庫県道145号下滝野市川線で、その向こう南西100メートルほどのところに一の鳥居がある。
周囲は田畑と住宅となっておりのどかな地域だ。
何と言っても石部神社門杉の存在感が素晴らしい。
落雷で燃えたのだろうか杉の木自体は中が黒くなっている。
手水舎の前の石段を上がると社殿前の広場となっている。
この広場もきれいに整備されていて垣も真新しい、広場の左側にはブルーシートで養生された土俵がある。
拝殿は腰板が付いたオープンな形式で続く幣殿にはガラス戸が付いていて何かの受付のようで珍しい。
拝殿や幣殿、本殿についても大きく大変綺麗に整備されていて気持ちが良い。
本殿を横から見るとガラスで覆われていて風雨を防ぐ構造となっていて外から本殿の様子を見ることができる。
本殿右側には皇塚古墳への小径があり自由に登っていけるようになっている(残念ながら未訪問)。
社殿は寛延年間(1748~1751年)に焼失とあり建築年の記録はないがそれ以降の建築と思われる。
社殿の状態は総じて良い。
中世の記録が残ってないが古くよりここに鎮座していることを感じさせてくれる神社だと思う。
思うに背後の皇塚古墳との関係が濃密で古墳の鎮守といった感じだろうか。
皇塚古墳の被葬者が分かれば石部神社(兵庫県加西市)との関係も判ってくるのだろうか。

皇塚古墳との関係が濃密な神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/6/29
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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