313-060_大倭物代主神社

比定社:大倭物代主神社

式内社コード:313-060
神名帳社名 :大倭物代主神社、オホヤマトノコトシロヌシノ/-モノシロヌシノ
社    格:小
所 在 地 :671-2507 兵庫県宍粟市山崎町下牧谷299
Plus Code  :2GH8+VX 宍粟市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「おおやまとことしろぬしじんじゃ」と読む、地名の山崎町下牧谷は「やまさきちょうしもまきだに」と読む。
下牧谷集落の西の山裾に鎮座。
国道29号線の今宮北交差点より兵庫県道429号岩野辺山崎線を西へ入り4.5kmほど。
集落の中を南西へ進むと突き当りにあり横から入る形になる。
鳥居前に大きな駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

山門の配置。
銘の入った鐘楼。

写真

大倭物代主神社を正面より臨む。
大倭物代主神社を正面より臨む。
右側(東)を臨む。集落の中を抜けてこの方向よりアプローチ、神社へは横から入る形になる。
右側(東)を臨む。集落の中を抜けてこの方向よりアプローチ、神社へは横から入る形になる。
正面(南)を臨む。鳥居前には広い駐車場と山門、トイレもある。
正面(南)を臨む。鳥居前には広い駐車場と山門、トイレもある。
左側(西)を臨む。集落の中の一番山側の山裾にあることが分かる。
左側(西)を臨む。集落の中の一番山側の山裾にあることが分かる。
南側の山門を正面より臨む。かつてはこの道が参道だったのだろうか、現在では全くその痕跡はない。
南側の山門を正面より臨む。かつてはこの道が参道だったのだろうか、現在では全くその痕跡はない。
山門より正面を臨む。参道の痕跡は見当たらない。
山門より正面を臨む。参道の痕跡は見当たらない。
山門の扁額には「式内郷社 大倭物代主神社」とある。
山門の扁額には「式内郷社 大倭物代主神社」とある。
鳥居をくぐると拝殿前の広場、改修されて全体的にキレイだ。広場は砂利が敷いてある。
鳥居をくぐると拝殿前の広場、改修されて全体的にキレイだ。広場は砂利が敷いてある。
鳥居の右側には鐘楼がある。
鳥居の右側には鐘楼がある。
鐘には「式内郷社 大倭物代主神社」とある。
鐘には「式内郷社 大倭物代主神社」とある。
広場の左側を臨む。
広場の左側を臨む。
広場の右奥にある手水舎。
広場の右奥にある手水舎。
広場より拝殿を臨む。
広場より拝殿を臨む。
拝殿を正面より臨む。真新しく質素でカチッとした拝殿。
拝殿を正面より臨む。真新しく質素でカチッとした拝殿。
拝殿を右側より臨む。
拝殿を右側より臨む。
拝殿を左側より臨む。石碑によると平成16年(2004年)台風23号で損壊、平成22年(2010年)に竣工とある。
拝殿を左側より臨む。石碑によると平成16年(2004年)台風23号で損壊、平成22年(2010年)に竣工とある。
拝殿の扁額には大倭物代主神社とある。
拝殿の扁額には大倭物代主神社とある。
拝殿内部を臨む。
拝殿内部を臨む。
拝殿の奥の本殿を右側より臨む。
拝殿の奥の本殿を右側より臨む。
本殿を右奥より臨む。本殿は新しくはないが非常に状態が良いように見える、たぶん拝殿再建の際に修復がなされたのだろう。
本殿を右奥より臨む。本殿は新しくはないが非常に状態が良いように見える、たぶん拝殿再建の際に修復がなされたのだろう。
拝殿前より鳥居を臨む。
拝殿前より鳥居を臨む。
拝殿前広場より鳥居越しに山門を臨む。
拝殿前広場より鳥居越しに山門を臨む。

感想


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

大倭物代主神社の読みは「おおやまとことしろぬしじんじゃ」。

ご祭神は、大名貴神・事代主神・大物主神・健御名方神。

創立年代は全く不明。
天正年間(1573~1592年)長水城落城の際兵火に遇つて焼失。
天和2年(1682年)8月21日造営。
明治7年(1874年)2月郷社。
明治14年(1881年)大倭物代主神社と改称。
平成16年(2004年)台風23号により幣殿・拝殿・絵馬殿が損壊(追加)。
平成22年(2010年)幣殿・拝殿竣工(追加)。

江戸時代までは「諸守大明神」と呼ばれていた。

創立以来の社殿は天正8年長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う。因って御神霊は現在の佐用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約百年後の天和2年8月再び現在の社殿を造営した。

とある。


兵庫県神社庁によると

大倭物代主神社の読みは「おおやまとものしろぬしじんじゃ」。

主祭神:建御名方神(タケミナカタノカミ)
配祀神:事代主神(コトシロヌシノカミ)・大物主神(オホモノヌシノカミ)・大名貴神(オオナムチノカミ)・
    奥津比古命(オキツヒコノミコト)・奥津比売命(オキツヒメノミコト)・菅原道真(スガワラノミチザネ)

祭記事:
 祭典に合わせ、当渡を行い、子ども神輿、餅撒きあり。

由 緒:
 当社は創立年代不詳にして社名を延喜神名式の制に大倭物代主神社として小社に列格せられ、明治7年(1874)2月郷社に列格、中古以来師衆又は諸守神社と称え祀られるを明治6年(1873)中大倭物代主神社と社名改称の儀旧飾磨県へ届出の処明治14年(1881)6月10日付けをもって許可せられた。
 創立以来の社殿は天正8年(1580)長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う・・・因って御神霊は現在の佐用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約100年後の天和2年(1682)8月再び現在の社殿を造営し祀られるものにして時の棟札は当社本殿に宝物として今猶保存されている。
 尚平成16年台風23号により幣殿・拝殿・絵馬殿が損壊。再建に向け奉賛会を設立し鋭意活動中。

とある。


大倭物代主神社のある当地は、揖保川の中流域に合流する伊沢川の谷筋にあたる場所。
伊沢川の谷筋は長く揖保川より北西へ15kmほど続く。
その伊沢川の谷筋の揖保川より4.5kmほどの場所の北斜面の山裾に鎮座する。
珍しいことに周囲には遺跡等は無いようだ。

大倭物代主神社の読みは「おおやまとことしろぬしじんじゃ」と「おおやまとものしろぬしじんじゃ」の2種に分かれている。
どちらが正しいのか不明だがご祭神とも関係がありそうではある。
大倭物代主神社のご祭神は、大名貴神・事代主神・大物主神・健御名方神。
兵庫県神社庁によると、建御名方神、(配祀)事代主神・大物主神・大名貴神・奥津比古命・奥津比売命・菅原道真となっていてご祭神に関してもなぜか別れている。
神社名についても、江戸時代までは「師衆神社」または「諸守神社」と呼ばれていたようだ。
そもそも記録の少ない神社で謎が深い。

大倭物代主神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
国道29号線の今宮北交差点より兵庫県道429号岩野辺山崎線を西へ入り4.5kmほど。
下牧谷集落の中を南西へ進むと突き当りにあり社域には横から入る形になる。
ありがたいことに鳥居前に大きな駐車場やトイレがある。
社域の配置を見ると鳥居の先に山門があり、現在は参道らしき道はない。
かつてはこの山門の方角に参道が続いていたのだろうか。

駐車場の端っこに山門(随神門)があり田畑の方角に向いている、その扁額には大倭物代主神社とある。
鳥居をくぐるとすぐ右側に鐘楼があり、鐘には「式内郷社 大倭物代主神社」と銘が入っている。
社域は全体的に修復がなされ真新しい、記念の石碑には平成22年(2010年)幣殿・拝殿竣工とある。
砂利が敷き詰められた拝殿前の広場より1段高い場所に拝殿がある。
立派な拝殿で新しくきれいだ。
拝殿右側には「下牧谷 北野天満神社」があり立派な略記が掲示されている。
その反面、大倭物代主神社の由緒書が無いのが残念。
拝殿後方の本殿は新しくはないが非常に状態が良いように見える、たぶん拝殿再建の際に修復がなされたのだろう。
だが記録に残る天和2年(1682年)の建物ではないように見える。

全体的に記録が少なく謎の多い神社だと思う、具体的に挙げると。
・ご祭神がハッキリしない
・神社の読み方がハッキリしない
・社域の配置に違和感がある
・地域との結びつきがハッキリしない
ということだろうか。

一番気になるのは、なぜこの場所なのかということだ。
記録を見ても訪ねてみてもよく分からない。
唯一言えるのは伊沢川の谷筋の入り口を抑える場所にあるということだろうか。

伊沢川の谷筋を押さえる神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2023/8/11
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7S3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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