比定社:白國神社
式内社コード:310-020
神名帳社名 :白国神社 シラクニノ
社 格:小
所 在 地 :670-0808 兵庫県姫路市白国5丁目15-1
Plus Code :VP73+QF 姫路市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「しろくにじんじゃ」と読む、地名の白国は「しらくに」と読む。
姫路城から直線距離で北に3kmほどの東側山裾に鎮座。
白國神社の西側にある姫路市立増位小学校をを目指していけば良い。
小学校の校門前より北に曲がり突き当りにありがたいことに駐車場がある。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
広嶺山山頂の廣峯神社との関係。
新羅国との関係。
写真
感想
神社謹製の「播磨國四の宮 白國神社」によると
當神社は凡そ千七百年の昔景行
天皇の曽孫 阿曽武命がその室
髙富姫難産苦惱に際し蒙った
社恩に報いるために創祀した古いお
社で御祭神の木花咲耶姫命は
天照大神の御孫天津彦彦火
瓊瓊杵尊の皇妃にましまし古
事記神代巻に見える御事歴に
よって安産をはじめ広く女人守護の
神とたたえられ歴代朝廷ならびに
武門、領主の崇敬厚く古來安産
を祈請し霊護を蒙った人々は
数知れず明治七年郷社に 昭和十年県社に列せられた。
例 祭 十月九日
節 分 祭 二月三日
湯 立 祭 七月㐧一日𫞂日
安産祈願祭 毎日
とある
白國神社Webサイトによると
御祭神
木花咲耶姫命(神吾田津日売命)
このはなさくやひめのみこと(かんあだつひめのみこと)
稲背入彦命
いなせいりひこのみこと
阿曽武命
あそたけるのみこと
今を去る千八百年前の昔、景行天皇の御子 稲背入彦命は、大和から当地方へ下向され、この白國の地に宮殿を構えて播磨地方を統治されました。
ある日のこと、その御孫 阿曽武命の妃・高富媛がご出産にあたり大変苦しまれました。
阿曽武命は倉谷山の峰に白幣を立て神吾田津日売命を祀り、一心に安産を祈願されたところ女神が現れ、「妾が神吾田津日売である。汝の祈りは天に通じている。妾がこの地に長く留まり婦人を守護し安産させましょう。」とお告げになられ、白幣が天高く舞い上がり、その白幣と共にお隠れになられました。
阿曽武命が館に帰られると無事に男子を出産されており、その神徳に感謝されました。
神恩に報いるため、倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀られたのが、白國神社の由緒と伝わっています。
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、神吾田津比売。
景行天皇(71年~130年、諸説あり)の代創祀(修正)。
孝謙帝の勅命により新羅国を白国と改。
元慶元年(877年)6月17日正五位下。
永万元年(1165年)刀を神紙官に納む。
享保14年(1729年)本殿造営(追加)。
明治7年(1874年)2月郷社。
大正6年(1917年)11月8日神饌幣帛料供進神社指定。
昭和10年(1935年)本殿造営(追加)。
昭和10年(1935年)10月1日県社。
江戸時代までは「白国大明神」と呼ばれていた。
景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から播磨へ下向、この白国の地に宮殿を構え、統治をした。その孫の阿曽武命の妃高富媛が出産時、大いに苦しんだ。命は倉谷山の峰に白幣を立てて神吾田津比売(木花咲耶媛)を祀り、安産を祈願した。女神が忽然とあらわれ、汝の祈りは天に通じている。とお告げになり、白幣と共に天高く舞い上がりお隠れになった。
妃は無事に出産、神徳に感謝し、倉谷山に社殿を設けて祀ったのが創始である。
白國神社の宮司家白国氏は阿曾武命から明治時代の75代目まで続いた。当初は佐伯直を賜り、佐伯氏と称していたが白国氏に改めたようである。
とある。
兵庫県神社庁によると。
主祭神:神吾田津比売神(カミゴタツヒメノカミ)
配祀神:稲背入彦命(イナセイリヒコノミコト)・阿曽武命(アソタケルノミコト)
由緒:
白国神社祭神三座の中、阿曽武命の妻、高富媛が難産のため大変苦しまれたので、阿曽武命が庫谷山の峯に上り潔清の地を選んで白幣を立て、供物を奉って神吾田津田売命を祀り、一心に安産を祈願せられたところ、女神が忽然と現われて「私が神吾田津日売である。今汝が救済を祈る気持ちはよく天に通じている。(中略)私は永くこの地に留まって婦人を守護し安産させよう」とお告げになると白幣が天に舞い上り、その白幣と共に北の高峯に、お隠れになったので急いで帰られると難なく男子を出産されていた。阿曽武命は早速庫谷山の麓に社殿を設けて、神吾田津日売命を祀られたのが当神社の創祀である。
播磨の国四乃宮である当神社は、歴代の朝廷ならびに武門領主の崇敬厚く、元慶元年(877)6月17日に正五位下の位を賜り、また二條天皇から腰刀を下賜わされている。明治7年(1874)2月、郷社に列せられ、昭和10年(1935)10月には県社に昇格した。
古来婦人の守護神としてたたえられ、今日もなお、播磨一円より参拝者が跡を絶えず、その神徳の高さを物語っている。
とある。
白國神社のある当地は、播磨平野(姫路平野とも)の中央部、市川の西岸で街道や水運に恵まれた地域。
東を流れる市川までは直線で2kmほど、南にある姫路城までは直線距離で3kmほどの広嶺山の東側山裾に当たる場所。
周囲には、桑の木遺跡・白国廃寺・二塚古墳・山根遺跡・白国宮山1号墳・白国宮山2号墳・白国梅林園遺跡・白国奥畑古墳・榊原忠次墓所・榊原政邦墓所等がある(兵庫県考古博物館資料による)。
周囲は古くより開けたようで上記のように古墳や遺跡がたくさんある。
さらに背後の広嶺山の頂上付近には廣峯神社があり、こちらはさらに規模が大きく古い資料もたくさん残っている。
廣峯神社の総研は古く天平5年(733年)吉備真備による創建とされている。
白國神社と廣峯神社の関係はハッキリとは分からないが山の頂上と東の山裾という違いはあるが両社の距離は直線で1kmほど。
白國神社のご祭神は、神吾田津比売神(かみごたつひめのかみ)。
別名は木花開耶姫(このはなさくやひめ)、こちらはよく目にするお名前だ。
配祀神として稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)・阿曽武命(あそたけるのみこと)を祀る。
景行天皇の皇子の稲背入彦命が白国の地を統治された。
阿曾武命が神吾田津比売神をお祀りしたのが始まりのようで、その子孫である宮司家の白国氏(佐伯氏)は明治時代まで続いていたようだ。
どうも白國神社は新羅国と縁が深いようではあるがハッキリしない。
白國神社へのアプローチは少しコツがある。
正面から行くとたぶん江戸時代そのままの街並みで非常に狭い。
クルマでは西側の増位小学校の側からアプローチすると駐車場も完備されており行きやすい。
白國神社の正面は南東を向いていてかつては市川から参道が続いていたのではないだろうか。
現在の入り口にはお寺のような2本の石柱があり、その奥には立派な山門がある。
周囲は住宅地で、たぶん周囲の道は江戸時代からそれほど変わっていないのではないだろうか。
山門をくぐると鳥居があり山裾に作られていることがよく分かる。
拝殿は少し高い場所にあり大きく立派なもので左右に張り出しがあり他では見かけない形式。
拝殿の後ろの本殿は板塀で囲まれておりよく見えない。
本殿は昭和10年(1935年)に造営されたもので新しく状態も良い。
ちなみに旧本殿は摂社の白國神社八幡社に使われており、こちらは享保14年(1729年)の造営とある。
全体的には寺院のような印象を受ける社域となっている。
お邪魔した際にもたくさんの参拝者が訪れ地域の尊崇が厚いことが伺える。
廣峯神社との関係、新羅との関係はよく分からないようだが播磨の中心地の一つであったことは間違いないだろう。
新羅との関係が深いと思われる神社。
注意点
周辺の道は狭いので注意。
訪問ノート
訪問日 :2019/2/17
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。