274-010_出石神社

比定社:出石神社

式内社コード:274-010
神名帳社名:伊豆志坐神社 八座、イツシノ-
社格:並名神大
所在地:668-0204 兵庫県豊岡市出石町宮内99
plus code:FVJC+R4 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

宮内集落の中心部の平地に鎮座。
出石神社を中心に集落が形作られたと言ったほうが正確かもしれない。
案内看板があちこちに立っているので迷うことはない。
兵庫県道・京都府道706号町分久美浜線より東に入ると神社の西側と南側に駐車場がある。

ハイライト

8座とは何を指すのか。
かつては西へ参道が延びていたということ。

写真

出石神社を正面より望む。現在の神社入り口は南を向いている。これは一の鳥居。
出石神社を正面より望む。現在の神社入り口は南を向いている。これは一の鳥居。
一の鳥居脇にある社標には国幣中社とある。
一の鳥居脇にある社標には国幣中社とある。
一の鳥居をくぐると緑の参道が続く。
一の鳥居をくぐると緑の参道が続く。
二の鳥居は両部鳥居。向こうに朱塗りの山門。
二の鳥居は両部鳥居。向こうに朱塗りの山門。
二の鳥居脇にある社標。国幣中社とある。式内社の表示は無い。
二の鳥居脇にある社標。国幣中社とある。式内社の表示は無い。
山門は朱塗りで豪華な感じ。
山門は朱塗りで豪華な感じ。
山門にある協力依頼。一時期はかなり傷んでいたようだ。
山門にある協力依頼。一時期はかなり傷んでいたようだ。
山門にある神社謹製の御由緒。ここにはご祭神は、天日槍命と伊豆志八前大神とある。
山門にある神社謹製の御由緒。ここにはご祭神は、天日槍命と伊豆志八前大神とある。
山門にある平安時代の鳥居跡が見つかった説明書。第一鳥居は狭間坂(出石町片間)に、第二鳥居は鳥居(出石町鳥居)にあったという言い伝えが実際に見つかったという内容。
山門にある平安時代の鳥居跡が見つかった説明書。第一鳥居は狭間坂(出石町片間)に、第二鳥居は鳥居(出石町鳥居)にあったという言い伝えが実際に見つかったという内容。
実際に見つかった鳥居の跡がコレ。地名も出石町鳥居、地名は様々な地形や事情を表していることが多い。
実際に見つかった鳥居の跡がコレ。地名も出石町鳥居、地名は様々な地形や事情を表していることが多い。
山門をくぐると拝殿。立派な拝殿だ、社殿は大正3年(1914年)に建築され、2度の地震で壊れたが修復されたものだと思う。
山門をくぐると拝殿。立派な拝殿だ、社殿は大正3年(1914年)に建築され、2度の地震で壊れたが修復されたものだと思う。
拝殿脇にも神社謹製由緒書。ここにはご祭神は、伊豆志八前大神と天日槍命とある(順序に注意)。
拝殿脇にも神社謹製由緒書。ここにはご祭神は、伊豆志八前大神と天日槍命とある(順序に注意)。
拝殿を望む。お供えものや絵馬がたくさんあって尊崇厚いことがよく分かる。
拝殿を望む。お供えものや絵馬がたくさんあって尊崇厚いことがよく分かる。
拝殿内部を望む。
拝殿内部を望む。
拝殿の後ろには幣殿と祝詞殿があり、その後ろに本殿。
拝殿の後ろには幣殿と祝詞殿があり、その後ろに本殿。
本殿を右側より望む。大きい。
本殿を右側より望む。大きい。
本殿の屋根には菊・五三の桐・巴が付いている。
本殿の屋根には菊・五三の桐・巴が付いている。
参道より一の鳥居を望む。
参道より一の鳥居を望む。

感想

神社謹製の御由緒によると

 但馬は古代日本において他に類を見ない特徴的な祭祀伝承を有しております。その中心が出石神社であります。ご祭神は新羅の国の王子天日槍命と伊豆志八前大神(八種の神宝)でございます。命は日本に渡来後、泥水が充満する当時の但馬の有様を御覧になって、円山川河口の岩石を切り開くことによって泥水を日本海へと流し、現在の肥沃な平地となった伝説があります。又鉄の文化を大陸から伝えられ国土開発の祖神として、関係業界から崇敬を受けて居ります。神社の西方七百米に鳥居という地名があります。昭和八年河川の改修で土中から鳥居の両柱の木口とその下から古銭が多く出土しました。平安時代すでに、国内第一の霊社といわれた往時の様子を伝えるものです。尚天日槍命の子孫として多遅間守命(菓祖、中嶋神社御祭神)、仲哀天皇の妃神功皇后がおられます。
但馬國一宮 出石神社

とある。

神社謹製の但馬国一宮出石神社由緒によると

但馬国一宮出石神社由緒
出石神社は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神(いずしはちまえのおおかみ)として、また天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。
 天日槍命は、古事記、日本書紀ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、その事蹟記紀のほか古語拾遺、播磨国風土記等にうかがうことができます。
 八種の神宝とは、古事記には珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・奥津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)と記しています。
 天日槍命のご子孫には、田道間守命(たじまもりのみこと)や神功皇后(じんぐうこうごう)があります。
神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相諮り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。
 但馬の国一宮として当地では別名を一宮(いっきゅう)さん呼び親しまれています。天日槍命は泥海であった但馬を円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、また殖産興業に功績を遺された神として尊宗を集めています。
 現在の社殿は大正三年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面には切妻造りの幣殿と祝詞殿があり、拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸(しとみど)をつり、正面には拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建築です。神門は丹塗の八脚門で、数多くの蟇股(かえるまた)を飾り、左右に連なる塀も丹塗りです。
 境内東北隅に約六百坪の禁足地があり、老樹が生い茂り、入れば祟りがあるといわれています。

とある

神社謹製の「平安朝(一千年前)の昔を偲ぶ鳥居の遺物」によると

当神社は奈良・平安時代の頃 但馬唯一の霊社として最も隆盛を極めたが、その第一鳥居は狭間坂(出石町片間)に、第二鳥居は鳥居(出石町鳥居)に建っていたことを云ひ伝えていた。たまたま昭和八年出石川改修に伴ひ鳥居橋の橋脚の工事中、地中から此の鳥居両柱の元口と、その下から多くの古銭が発見された。これは当時の第二鳥居の遺物であり現在の鳥居の区名が起った由来ともなっている。
平安朝の昔、但馬の国司や都の人たちが国府に着くと次々にこの鳥居をくぐって出石神社に参向した往時を偲ぶことができる。
重之集 下に
そねのよしただたぢまにていづしの宮にて なのりそ というものをまめといえば
千はやふる いづしの宮の 神のこま ゆめなのりそや たゝりもそする
暁のまさきにみゆる朝顔はなのりそせまし我にかわりて
源 重之(平安朝歌人)
立春の日に神馬藻を奉献する神事が今も続いている 神馬藻を奈乃利曽(なのりそ)と訓じ 海藻のほんだわらのことである
但馬宮 出石神社社務所

とある

次のデータが残る。

創建は不明。
天平9年(737年)神戸。
承和12年(845年)従五位下『続日本紀』。
貞観10年(868年)從五位上。
貞観16年(874年)正五位上『三代実録』。
弘安8年(1285年)『但馬国大田文』に社勢は隆盛。
永正元年(1504年)兵火で社殿はすベて灰燼。
大永4年(1524年)再建。
天正8年(1580年)秀吉の但馬征服で神領没収。
安永3年(1774年)造営。
明治4年(1871年)国幣中社。
明治43年(1910年)焼失。
大正3年(1914年)造営。
大正14年(1925年)北但大震災で破損。
昭和2年(1927年)北丹後地震で社殿破損。
様々な呼び方があったようだ。
「出石大神宮」「出石大社」「一宮大明神」「一宮出石大明神社」と呼ばれていた。

出石は、古代に但馬地域で活躍した天日槍命の本拠地であると言われている。
天日槍命と言えば、志布比神社(網野町浜詰)に
”第11代垂仁天皇の時代、天日槍命が来朝した時、その船は塩土翁に導かれ当地に上陸したらしい。”
というお話が伝わっていた。
日本に上陸したのは網野、本拠地にしたのが当地ということになるのだろう。

いつも出石を訪れると不思議に思っていることがある。
それはアスファルトの道路が茶色いところが多いことだ。
勝手な想像だが、地下水なのか、土質なのか分からないが、土地に鉄分が多く含まれておりそれが茶色くなっているのではないかと思っている(個人的見解です)。
それだけ鉄が採れた場所なのだろうと感じている。
天日槍命はそんな土地に目を付け、製鉄を発展させ、その結果大きな勢力となっていたのだろう。

延喜式神名帳・但馬国・出石郡の「伊豆志坐神社 八座」は、名前の通り8座とある。
この8座とは、天日槍命が持ってきたと言われる八種の神宝(出石八前大神)のことだろうか。
では、天日槍命自身はどうなるのだろう?
神社謹製の由緒書にも先に八種の神宝が書いてある。
不思議だ。

また出石神社の鳥居を発掘したというお話が大変興味深い。
各地で様々な伝承が残っているが、本当にあったこともあるだろうし、無かったこともあるだろう。
しかし、こうして平安時代の鳥居が発掘されると本当のお話だったのだということが裏付けられる。
確かに、衛星写真や航空写真で見ると、道路が見事に真っ直ぐに西へ伸びているのが分かる。
言い伝えや地名を大事にしなければならないと思う。

この件は、新たな問題と言うか、疑問も持ち上がってしまっている。
西に参道が延び、鳥居もあったということになれば、社殿も当然西向きだっただろうと推測される。
現在の社殿は南向きで平安時代の形態とは変わってしまっているということだ。
このあたりは現在のところ解明されてはいないようだ。
いずれにしても中世の出石神社は大いに盛んだったということが分かる。

現在の出石神社は南側に一の鳥居、真っ直ぐ進むと二の鳥居は両部鳥居、その先に山門がある。
拝殿、それに続く幣殿、本殿はいずれも立派で規模が大きい。
現在の社殿は大正3年(1914年)に建築され、2度の地震で壊れたが修復されたもの。
キラキラした一宮が多い中で、地域に密着した渋い雰囲気を持っている。

最後に、見落として無いと思うのだが、出石神社には式内社の表示が無い。
同じ但馬国の一宮である粟鹿神社も同様に式内社の表示が無い。
この地域の有力神社は朝廷と仲が悪かったのだろうか(個人的見解です)。
面白いものだ。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2018/7/15
交通手段:クルマで訪問
カメラ:DMC-TZ60

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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