比定社:名草神社

式内社コード:273-260
神名帳社名:名草神社、ナクサノ
社格:小
所在地:667-0051 兵庫県養父市八鹿町石原1755-6
plus code:CMC4+X6 養父市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

八鹿町石原の妙見山(標高1139m)の北東の標高800mの山の中腹に鎮座。
国道312号線の八鹿から西へ距離にして16kmほど狭小な林道のため十分に注意が必要。
冬期は積雪のため通行不可。
駐車場完備。

ハイライト

国指定の重要文化財の本殿・拝殿・三重塔の細部の作り。

国指定重要文化財(建造物)

名草神社 拝殿
時代:江戸後期
年代:元禄2
西暦:1689
名草神社は、妙見山の山中に鎮座し、中世から近世にかけて但馬地方における妙見信仰の拠点として栄えた。
 本殿は、出石城下の大工と地元大工が棟梁を務め、正面向拝廻りの華やかな彫刻など、躍動感のある構成となっている。拝殿は、割拝殿形式の希少な遺構である。
 名草神社は、特異な平面と空間構成をもつ大型社殿で、豊かな彫刻や彩色で飾られ、当地方における先駆的な装飾をもつ神社建築として貴重である。

国指定重要文化財(建造物)

名草神社 本殿
時代:江戸後期
年代:宝暦4
西暦:1754

【詳細解説】
名草神社    二棟
本殿、拝殿
 名草神社は、養父市北境にある妙見山の標高約八〇〇メートルの高所に鎮座し、名草彦命を主祭神として七柱を配祀する。古くは妙見社、妙見大菩薩などと称し、中世には但馬国守護山名氏一党の外護を受け、また近世には但馬地方を中心に庶民の崇敬を集め、妙見信仰の拠点として栄えた。妙見信仰は、北辰すなわち北極星や北斗七星を祀る信仰で、中世以降、千葉氏や相馬氏、大内氏など武家の信奉を集めていた。
 境内は南面し、南東の下段に三重塔(重要文化財)、中段西側の石段上に社務所を配し、境内奥の石垣上段に本殿と拝殿を南面して建て、本殿の東側に稲荷社と愛宕社を祀る。このうち本殿と拝殿は、昭和四二年三月三一日付で兵庫県指定重要有形文化財に指定された。
 本殿は棟札により宝暦四年(一七五四)の上棟で、大工棟梁を出石城下の宮本七郎兵衛春重と地元出身の田中杢右衛門富宗が務めた。建立後間もない明和元年(一七六四)に、屋根が銅瓦葺からこけら葺に変更された。
 規模は、桁行一七・六メートル、梁間九・〇メートル、入母屋造、千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付、こけら葺である。
 平面は、桁行七間、梁間二間の内陣の後方を内々陣とし、内陣前面は梁間の広い外陣とする。内外陣の周囲に軒支柱を立て、前面は浜床として両端室に狛犬を祀り、側背面は縁として建具を建て、室内に取り込む。また正面柱間は、中央間に次いでその左右二間目が広いという、特異な形式をもつ。
 軸部は、内部では円柱を貫・長押で固め、内陣正面では頭貫に植物紋様の透彫彫刻を飾る。組物は、内陣内部を三斗、周囲を出組、外陣を二手先とし、中備の蟇股内部に中国説話や花鳥の図柄を彫る。側背面では、前面を階段状とした布石積基礎の土台に立てた角柱を貫・長押で固め、円柱と、海老虹梁で繋ぐ。
 内陣の軸部を漆塗や金箔押とするほか、向拝を含めた各部の彫刻を極彩色で飾る。特に内々陣中央間前面の拝所は、円柱二本を虹梁で繋ぎ、連三斗と蟇股を置き、金襴巻などで荘厳する。天井は、内陣を格天井、内々陣は鏡天井、外陣は折上小組格天井を張り、縁は化粧屋根裏とする。
 柱間装置は、内々陣各間に板戸を開き、内外陣境は格子戸、外陣正面を障子戸内開として開放的につくり、内陣背面や側背面の軒支柱間は板壁や板戸引違などとする。
 向拝廻りは特に意匠を凝らし、外陣正面柱、軒支柱、向拝柱を海老虹梁で二段に繋ぎ、反りをもたせた化粧棟木と菖蒲桁を架け渡す。向拝柱上は二重虹梁間に獅子の彫刻を置き、虹梁上の力童子彫刻が化粧棟木を担ぐ。軒支柱筋では三間分の虹梁の中央に虹梁を重ね、龍彫刻を飾り、上段虹梁上の蟇股で化粧棟木を受ける。外陣正面中央間でも、二重虹梁上の蟇股で化粧棟木尻を受ける。さらに各部材を、花鳥の籠彫や龍彫刻の持送で受けるなど、装飾密度の濃い躍動感のある構成とする。
 軒は二軒繁垂木で、妻飾は狐格子とし、鰭付懸魚を吊る。
 拝殿は、棟札により元禄二年(一六八九)の建立になり、桁行五間、梁間二間、割拝殿形式で、入母屋造、こけら葺である。
 平面は桁行五間のうち中央間を通路とし、両側二室を拭板敷として周囲に切目縁を廻らし、南面の縁は懸造とする。
 軸部は、切石積の石垣上に土台を廻し、円柱を貫・長押で固め、通路部分は虹梁で繋ぐ。
 組物は、室内は三斗で中備を撥束とし、外部は出組とし中備を簑束とするが、通路部分は虹梁上に蟇股及び出組をおく。
 天井は各面とも格天井を張り、柱間装置は、東西室とも側面南間を板壁とし、他は建具を欠失し開放としている。内外ともに軸部を赤色塗、板類を白色塗とするが、特に西室は内法上部が煤で黒変している。
 軒は二軒繁垂木で、妻飾は狐格子とし、懸魚を吊る。
 名草神社の社殿は、近世但馬地方における妙見信仰の拠点としての繁栄を背景に造営された。 本殿は、特異な平面と空間構成をもつ大型社殿であるとともに、内外ともに豊かな彫刻や彩色で飾られ、当地方における先駆的な装飾をもつ神社建築として貴重である。また本殿とともに残る拝殿は、割拝殿形式の希少な遺構であり、高い価値が認められる。
【参考文献】
『名草神社建造物調査報告書』(養父市教育委員会 二〇〇八年)

国指定重要文化財(建造物)

名草神社三重塔
時代:室町後期
年代:大永7
西暦:1527

写真

名草神社の駐車場。林道から曲がって神社に入ってくると贅沢な駐車場に到着。なんと国指定重要文化財の三重塔の横に駐車できる。
名草神社の駐車場。林道から曲がって神社に入ってくると贅沢な駐車場に到着。なんと国指定重要文化財の三重塔の横に駐車できる。
駐車場から社殿へ向かう参道。なんだか参道らしくない。
駐車場から社殿へ向かう参道。なんだか参道らしくない。
見上げると石段の上に社殿がチラッと見える。まわりは素晴らしい社叢というか巨木の森。
見上げると石段の上に社殿がチラッと見える。まわりは素晴らしい社叢というか巨木の森。
下馬の大きな石碑。やはり昔の人達で普通の人は徒歩だけども、有力者は馬で登ってきたのだろうか。
下馬の大きな石碑。やはり昔の人達で普通の人は徒歩だけども、有力者は馬で登ってきたのだろうか。
さらに石段。手前にはたぶん鳥居の跡。
さらに石段。手前にはたぶん鳥居の跡。
左右あるので鳥居の跡なのだろう。木が傷んで折れたようだ。全体的に修理が入るまではかなり傷んでいたのではないだろうか。
左右あるので鳥居の跡なのだろう。木が傷んで折れたようだ。全体的に修理が入るまではかなり傷んでいたのではないだろうか。
石段横の石垣は精緻な組み方。
石段横の石垣は精緻な組み方。
石段を登ると平成の大修理の真っ最中。
石段を登ると平成の大修理の真っ最中。
左手には大きなお寺のお堂のような社務所。この社務所は元禄8年(1695年)に作られた古いもので兵庫県指定文化財。
左手には大きなお寺のお堂のような社務所。この社務所は元禄8年(1695年)に作られた古いもので兵庫県指定文化財。
社務所の中に仮の社殿がこしらえてあるので参拝させていただいた。
社務所の中に仮の社殿がこしらえてあるので参拝させていただいた。
平成の大修理説明書。修理前の写真。
平成の大修理説明書。修理前の写真。
工事中の割拝殿、国指定重要文化財。割拝殿自体は珍しくはないが、石垣からせり出して建てられているのが凄い、見たこと無い。
工事中の割拝殿、国指定重要文化財。割拝殿自体は珍しくはないが、石垣からせり出して建てられているのが凄い、見たこと無い。
本殿は同じく国指定の重要文化財。全く見えないのが残念だが、完成後に再度訪問したい。
本殿は同じく国指定の重要文化財。全く見えないのが残念だが、完成後に再度訪問したい。
社殿のある場所から石段を望む。さっきの丸いものはやっぱり鳥居だろう。ここまで1箇所も鳥居が無い、鳥居が朽ちてしまうほど傷んでいたということだ。
社殿のある場所から石段を望む。さっきの丸いものはやっぱり鳥居だろう。ここまで1箇所も鳥居が無い、鳥居が朽ちてしまうほど傷んでいたということだ。
ここにも何かの基礎のようなものがある。なんだろう。
ここにも何かの基礎のようなものがある。なんだろう。
改めてクルマを駐車した三重塔のあるところまで戻ってきた。大永七年(一五二七)に建てられた出雲大社にあったものを寛文五年(一六五五)にここまで運んできて移設したということだ。 三重塔は国指定の重要文化財。クルマがない時代にこれだけの材をここまで運び上げるのはさぞ難儀したことだろう。
改めてクルマを駐車した三重塔のあるところまで戻ってきた。大永七年(一五二七)に建てられた出雲大社にあったものを寛文五年(一六五五)にここまで運んできて移設したということだ。 三重塔は国指定の重要文化財。クルマがない時代にこれだけの材をここまで運び上げるのはさぞ難儀したことだろう。
八鹿町教育委員会謹製の名草神社三重塔の説明書。
八鹿町教育委員会謹製の名草神社三重塔の説明書。
以前は杉の巨木も国指定の天然記念物だったようだ。台風19号で倒れたとある。
以前は杉の巨木も国指定の天然記念物だったようだ。台風19号で倒れたとある。
倒れた杉の巨木の根っこが保存してある。
倒れた杉の巨木の根っこが保存してある。
倒れた杉の巨木自体も横にある。何か有効活用できなかったのだろうか。土に返そうということなのだろうか。
倒れた杉の巨木自体も横にある。何か有効活用できなかったのだろうか。土に返そうということなのだろうか。

感想

八鹿町教育委員会謹製の名草神社三重塔の説明書によると

国指定重要文化財 名草神社三重塔
明治三十七年二月十八日指定
<三間三重塔婆(さんげんさんじゅうのとうば)>
 この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久(あまこつねひさ)が願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立したものと伝えます。
 出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)九月に標高八〇〇mのこの地に移築されました。
 高さは二十四.一m、一重の一辺の柱間は四.七mあります。屋根はこけら葺で、各重には高闌付縁があります。心柱は二重から塔の先端まで伸びています。
 大永七年の材料は松・けやきが主体で、寛文五年に移築されたとき、妙見杉で補っています。
 彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。蟇股には凡字のほかに蓮、牡丹、琵琶、雲の透かし彫りがあります。また三重の軒隅には「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。
 昭和六十二年十月に解体修理が完成し、丹塗りも鮮やかな、三重塔が四百六十年ぶりによみがえりました。
昭和六十三年十一月
八鹿町教育委員会

とある。

以下のデータが残る。

ご祭神、名草彦命(なぐさひこのみこと)。
[配祀] 天御中主神・高御産霊神・神御産霊神・日本武尊・御祖神・比賣神
 または 天御中主神・高御産霊神・神御産霊神・五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神
敏達天皇14年(585年)創建。
文安2年(1445年)寄進状が残る。
天正5年(1577年)秀吉によってすべてを没収。
慶安元年(1648年)家光の朱印状が残る。
寛文5年(1665年)三重塔造営(出雲大社より移設、元は大永7年(1527年)建立)。
元禄2年(1689年)拝殿造営。
元禄8年(1695年)社務所造営。
宝暦4年(1754年)本殿造営。
明治2年(1869年)「名草神社」に復した。
明治6年(1873年)村社。
大正4年(1915年)神饌幣帛供進神社指定。
大正11年(1922年)県社。
江戸時代までは「妙見社」「妙見宮」と呼ばれていた。

敏達天皇14年(585年)5月に養父郡司で紀伊国名草郡出身の高野直夫幡彦が、当時流行した悪疫に苦しむ民を憐んで、名草彦神など故郷の祖神を、当地の石原山(妙見山)に祀つたのを創建とする。
平安末期より祭祀諸神中に星の神北辰とされる「天御中主神」のあることをもって妙見信仰の場となり、神仏習合の色をもつようになった。
さらに、中世を通じて真言宗帝釈寺との関係を深め、両部神道の典型を構成した。その加持祈祷で明治維新まで出石藩主仙石氏や村岡藩主山名氏、因幡藩主池田氏、摂家一條氏などの祈願所となつた。

維新後の神仏分離令により、社人と寺僧間で争いが生じ、明治2年(1869年)「名草社」の名に復したものの係争は続いた。
明治9年(1876年)豊岡県による帝釈寺の廃止通達を経て、明治13年(1880年)本社の東南6Kmの成就院に帝釈寺は合併(現日光院)して一応の決着をみた。
この間に社要記録や宝物は散逸し、明治6年(1873年)10月の社格制定に際しても、紛糾時ゆえに村社にしか列せられなかった。

とある。

標高1139mの妙見山の山腹にあり険しい山の中、養父郡と美方郡と城崎郡の境界あたりにある。
山陰の妙見信仰の中心である。
それだけに近世まで大きな力を持っていたと思われる。
現在は八鹿からクルマで小1時間だが、途中の林道は険しく狭い、冬期は積雪のため通行止めになる。
別ルートとして村岡区耀山(かかやま)より金山峠を経由し名草神社に到達するルートもある(路面悪く林道に慣れた人にしかおすすめできない)。

クルマが発達するまでは、当然徒歩で登拝していた。
八鹿町日畑から、名草神社、そして香美町村岡区作山がメインのルートだったようだ。
その他、様々なルートが存在するようだ。
・八鹿より小佐を経由して日畑・妙見
・八鹿より小佐を経由して石原・妙見
・尾崎・大谷より山を越えて妙見
・八木より今滝寺を越えて石原・妙見
・日高町観音寺より山を越えて妙見
・村岡区作山より山を越えて妙見

周囲の地名を見渡してみても鉱物と関わりのありそうな地名も多い。
信仰の中心だっただけではなく、鉱物との関わりもあったのかもしれない(個人的見解です)。
中世より妙見信仰と習合していったようだが、その経緯はよく分からない。

社域は広く古木や大木が多く深山幽谷の感がある。
訪問した日は、平成の大修理(平成27~32年度、2015~2020年度)の真っ最中だった。
残念ながら本殿は全く見えなかった…。
ぜひとも再度訪問して完成した姿を見たいと思っている。

妙見信仰ではあるが社殿は南を向いている。
拝殿は割拝殿で石垣からせり出して作られている。
割拝殿は時々あるが、割拝殿でかつ石垣からせり出しているのは見たことがない。
石垣はお城の石組みのように角が出てカチッと組み合わされている。

訪問時にビックリしたのが社務所だ。
かなり古く感じられ、お寺のお堂のようで神仏習合の影響も感じる。
この社務所も元禄8年(1695年)に作られた古いもので兵庫県指定文化財となっている。

多くの神社を訪ねたり調査したりしているが、神社もすごく変化している。
神社名が変わるなんて日常茶飯事だし、災害により遷座したり、地域が興隆したり没落したり、朽ち果てたり廃絶したりもする。
挙句の果てにはご祭神が変わってしまうこともある。
庇護する時の有力者の状況によっても大いに変わる。
さらに政治状況でも変わるものだ。
そもそも式内社が掲載されている延喜式神名帳とは朝廷が庇護した神社のリストだ(これも政治)。
明治期の廃仏毀釈運動も政治の一環だ(これも政治)。
実に様々な時代時代の背景を背負い、幸運にも現在存在しているということ自体が大変貴重なことだと思う。
後世に伝えていかないといけない。

注意点

アプローチの林道は狭小なので十分に注意する必要がある。

訪問ノート

訪問日:2019/8/17
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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