273-120_井上神社(養父市吉井)

比定社:井上神社(養父市吉井)

式内社コード:273-120
神名帳社名:井上神社 二座、ヰノヘノ
社格:小
所在地:667-1111 兵庫県養父市吉井1656-1
plus code:9J9J+M5 養父市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

吉井集落の中央の山裾に鎮座。
国道9号線の関神社前交差点より鉢伏高原へ兵庫県道87号関宮小代線に入る。
兵庫県道87号関宮小代線はバイパスではなく集落の中を通る旧道を走らないと見えない。
上吉井のバス停付近北側の民家の間に社標と石灯籠が見えるが見つけにくいかも。
神社の入り口は旧道から1本北側の集落の中を通る道沿いにある。
駐車場は無いので注意。

ハイライト

神社入り口からは想像できないダイナミックな社域。
中井権次橘正胤による拝殿の彫り物。

写真

井上神社を正面より望む。民家の間に社標と石灯籠がある。
井上神社を正面より望む。民家の間に社標と石灯籠がある。
右側(東)を望む。これは集落の中を通る旧山陰道、こちらは関宮方面。
右側(東)を望む。これは集落の中を通る旧山陰道、こちらは関宮方面。
左側(西)を望む。これは集落の中を通る旧山陰道、こちらは香美町方面。
左側(西)を望む。これは集落の中を通る旧山陰道、こちらは香美町方面。
社標には式内とある。
社標には式内とある。
住宅の間を抜けたところに両部鳥居。
住宅の間を抜けたところに両部鳥居。
陵墓鳥居の扁額には式内井上神社とある。
陵墓鳥居の扁額には式内井上神社とある。
両部鳥居をくぐるとゆるい上りの石段が続く。
両部鳥居をくぐるとゆるい上りの石段が続く。
石段の途中にある手水舎。
石段の途中にある手水舎。
石段を登りきると広場。拝殿はさらに3段ほど高いところにある。
石段を登りきると広場。拝殿はさらに3段ほど高いところにある。
広場の右側を望む。奥に蔵がある。
広場の右側を望む。奥に蔵がある。
広場の左側を望む。農村歌舞伎舞台がある。
広場の左側を望む。農村歌舞伎舞台がある。
3段に組まれた石組みの石段を登ると拝殿。
3段に組まれた石組みの石段を登ると拝殿。
拝殿を正面より望む。豪華な中井権次橘正胤の彫り物が施されているのが分かる。今にも動き出しそうだ。拝殿は明治7年(1874年)に新築、大正時代に改修とある。
拝殿を正面より望む。豪華な中井権次橘正胤の彫り物が施されているのが分かる。今にも動き出しそうだ。拝殿は明治7年(1874年)に新築、大正時代に改修とある。
拝殿を右側より望む。
拝殿を右側より望む。
拝殿を左側より望む。拝殿の右手には参集殿のような建物がある。全体の規模が大きい。
拝殿を左側より望む。拝殿の右手には参集殿のような建物がある。全体の規模が大きい。
拝殿の扁額には井上神社とある。
拝殿の扁額には井上神社とある。
拝殿より本殿を望む。よく見えないが新しいようだ。
拝殿より本殿を望む。よく見えないが新しいようだ。
拝殿内部の右側には神輿。年季が入っている。
拝殿内部の右側には神輿。年季が入っている。
拝殿右側より本殿を望む。行事の後だったのだろうか電球がぶら下がっている。本殿の右手に摂社末社。
拝殿右側より本殿を望む。行事の後だったのだろうか電球がぶら下がっている。本殿の右手に摂社末社。
本殿を左側より望む。
本殿を左側より望む。
本殿の左手にも摂社末社。石垣の組み方がカチッとしている。
本殿の左手にも摂社末社。石垣の組み方がカチッとしている。
拝殿前より広場を望む。たぶん広場には土俵があって石垣は桟敷席だったのではないだろうか。
拝殿前より広場を望む。たぶん広場には土俵があって石垣は桟敷席だったのではないだろうか。
広場の横の段々を望む。
広場の横の段々を望む。
広場より両部鳥居を望む。
広場より両部鳥居を望む。
参道は民家の間を通っている。
参道は民家の間を通っている。
両部鳥居越しに街道を望む。
両部鳥居越しに街道を望む。

感想

由緒書はないので詳細不明。

以下の記録が残る。
ご祭神は、素盞嗚命・稻田姫命、他にも罔象女命・多遅摩比那良岐神、御井神という説もある。
天平2年(730年)創建。
明治7年(1874年)拝殿新築。
大正4年(1915年)?拝殿改修。
江戸時代は「井上神社」「祇園」と呼ばれていた。
かって此の地に、田中の池という霊泉があつて、農耕に利用され、この泉を吉井と称して村名とし、泉の神霊を井の上の地に自然神として祭り、鎭守としたが、後に今の二神が祭神として祀られた。
明治初年まで祇園牛頭天王が合祀されており「祇園さん」と言われていたが、神仏分離で元の社名・祭神に戻した。
とある。

神社入口の社標のある集落の中の狭い道は、かつての山陰道で多くの人々が往来し賑わっていたと思われる。
思うに、北へ向かう人々はこれから始まる険しい道のりに備えて休憩をしたり峠越えの準備をこのあたりでしていたのではないだろうか(個人的見解です)。

旧道の集落の中の道(山陰道)に面して社標と石灯籠がある。
間口が狭いので見つけるのに苦労するかもしれない。
鳥居は両部鳥居でゆるやかな簡易舗装の石段が続く。

想像するよりも立体的でダイナミックな社域となっている。
社域は2段になっていて、下の広場はかつては土俵があったのではないかと思う(個人的見解です)。
石組みしてあり桟敷席のようになっており、西側には農村歌舞伎舞台がある。

3段に組まれた石組みの石段を登ると正面に拝殿があり奥行きのあるスペースだ。
拝殿は明治7年(1874年)に新築、大正時代に改修されたようで中井権次橘正胤の彫り物が施してある。
生き生きとしていて今にも動き出しそうな彫り物、一見の価値がある。
拝殿後方の本殿は残念ながらよく見えない。

社域も社殿も全体的に傷みが散見され状態は決して良くない。
街道筋に作られた貴重な神社だと思われるので良い状態で保存されることを願う。

注意点

駐車場は無いので注意。

訪問ノート

訪問日:2019/4/6
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3