266-110_高蔵神社(髙藏神社)

比定社:高蔵神社(髙藏神社)

式内社コード:266-110
神名帳社名 :高蔵神社、タカクラノ
社    格:小
所 在 地 :623-0364 京都府綾部市西坂町宮ケ嶽21
Plus Code  :958V+56 綾部市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

西坂集落の西の端の山裾に鎮座。
京都府道9号綾部大江宮津線の満福寺下バス停より南に入る。
そのまま集落の一番奥まで進むと道が未舗装路となり到着する。
神社前に駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

綾部と大江の間の交通の要衝にあること。
ちょっと不思議な神社の配置であること。

写真

高蔵神社を正面(東)から望む、未舗装の道が神社前で曲がっている。京都府道9号綾部大江宮津線から来ると右手から来ることになる。参道はこの写真の後方へ伸びているはずなのだが…。
高蔵神社を正面(東)から望む、未舗装の道が神社前で曲がっている。京都府道9号綾部大江宮津線から来ると右手から来ることになる。参道はこの写真の後方へ伸びているはずなのだが…。
社域は広くはないが立派な社殿が覆屋に入り3つ並んでいる配置。周辺は田畑で良い環境、懐かしい感じがする。
社域は広くはないが立派な社殿が覆屋に入り3つ並んでいる配置。周辺は田畑で良い環境、懐かしい感じがする。
神社謹製の由緒書、風雪で傷んでいるが貴重な資料なので再生して欲しいと願う。
神社謹製の由緒書、風雪で傷んでいるが貴重な資料なので再生して欲しいと願う。
社域は広くはないが立派な社殿が覆屋に入り3つ並んでいる配置。周辺は田畑で良い環境、懐かしい感じがする。
覆屋に入った社殿が3つ並ぶ、中央に高蔵神社、右に八幡宮社、左に若宮神社と配置されている。覆屋と拝殿を兼ねている形式だ。
真ん中が高蔵神社でご祭神は武内宿彌となっている。
真ん中が高蔵神社でご祭神は武内宿彌となっている。
高蔵神社を望む、覆屋が立派、彫り物も施されている。
高蔵神社を望む、覆屋が立派、彫り物も施されている。
高蔵神社の本殿。
高蔵神社の本殿。
高蔵神社の覆屋に入った本殿。風雪で色あせてはいるが状態はまずまず。建築年代は不明。
高蔵神社の覆屋に入った本殿。風雪で色あせてはいるが状態はまずまず。建築年代は不明。
拝殿側から鳥居を望む、明治40年とあるので比較的新しい。鳥居の外側に手水舎があるので、この先にも鳥居があるのかもしれない(未調査)。
拝殿側から鳥居を望む、明治40年とあるので比較的新しい。鳥居の外側に手水舎があるので、この先にも鳥居があるのかもしれない(未調査)。

感想

神社謹製の由緒書によると

式内 髙藏神社(たかくら)
 由緒・縁起
延喜式巻第十[神祇十]山陰道神 五百六十座 丹波国 七十一座 何鹿郡 十二座 中の一座
鎮座地 京都府綾部市西坂町宮ケ嶽二十一番地
ご祭神 武内宿彌
祭 儀 例大祭 十月十七日 祈年祭 新嘗祭
    一月十八日の厄神祭 他に恒例祭儀
    古くから厄神と云われ、古来厄除の祭が行われて来ている。
創立年月日、再建等 不詳なれども延喜以前の創祀と考えられる。
 往古より宮ケ嶽の頂上に祀りしを中古現在地に遷し祀りしものなりと言う。
 毎年の国司役人の参詣の祭急峻のために度々落馬せることなどあり、此の地に遷し祀ったとも云い伝えられている。
●破損のため読めず●
境内社に
 八幡宮社  祭神 誉田別天皇(ほんだわけ、第十五代応神天皇)
 若宮神社  祭神 大鷦鷯天皇(おおさざき、第十六代仁徳天皇)
 稲荷神社  祭神 稲倉魂神(いなくらたまのかみ)
 大山祇神社 祭神 大山祇神
 厄除神社  祭神 疫神(えやみのかみ)
 牛頭神社  祭神 素戔嗚命(すさのおのみこと、須佐之男命)
氏子崇敬者 西坂町の全戸
主要年表
 明治六年 指定村社と公称 明治十年六月 延喜式内社認定
 明治四十年三月八日 神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定
 昭和二十七年二月二十五日 宗教法人法に基く「宗教法人」髙藏神社として設立を登記
 昭和六十一年七月二十三日 髙藏神社の規則を一部改正
 昭和六十一年十月九日 髙藏神社の規則改正を京都府が認証

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、建内宿禰。
長徳元年(995年頃)源頼光が大江山の鬼退治の際当社に參詣(追加、大江山絵巻による年代)。
享保14年(1729年)九月吉辰に建立。
明治6年(1873年)村社。
明治10年(1877年)式内社に認定。
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進神社指定。
初めは南方宮ヶ嶽の頂上(332m)に祭ってあった、中古現地に遷座。
江戸時代までは「大藏大明神」「高倉大明神」と呼ばれていた。
今も小字名に「高倉」があり、律令制時代にここに食料などを保管する高蔵が建立されていたのか、その由緒から社名がつけられたものと思われる。

とある。

当地は、北へ枯木峠を経由し大江町南有路に通じ、西へ赤目坂峠を経由して大江町尾藤や大江町南山へ通じる交通の要衝だった。
そういう位置関係であるからこそ由緒に源頼光の大江山の鬼退治が出てくるのだろう。

当地は、江戸時代までは赤目坂村(あかめざかむら)と呼ばれていた。
明治22年(1889年)に西保村と赤目坂村が合併し、物部村の大字として現在の西坂が成立したようだ。

「延喜式神社の調査」には、源頼光が大江山の鬼退治の際当社に參詣とある。
『大江山絵詞』(大江山絵巻)によると
”一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。”
とある。
年代と言い、地理的条件といい、由緒を裏付けるような内容となっている。

京都府道9号綾部大江宮津線の満福寺下バス停より南に入り進んでいくと未舗装の道路となる。
未舗装路を走ることになるのでクルマによっては注意が必要。
未舗装の道路を進んで行くと林の中に神社はある、なかなか良い雰囲気で懐かしい感じがする。

しかし、これは神社の北側からアプローチすることになる。
神社自体は東を向いており、本来は鳥居の向いている東からのアプローチが正しいと思う。
加えて、手水舎が現在の鳥居の外側にあり小さな橋もあるので、もっと東に鳥居があるような配置。
でも、参道が東へ続いているということは無いようだ。
鳥居前に牛頭神社が北向きに鎮座していて、これまた不思議な配置だと思った。

鳥居をくぐると、社域には覆屋付きの3つの社殿が並ぶ。
中央に高蔵神社、右に八幡宮社、左に若宮神社と配置されている。
現在の社殿の建築時期は不明だが、コンパクトでシンプル、全体的に風雪で色褪せてはいるが状態は良い。

なぜか大いに懐かしさを感じる神社。

注意点

未舗装路を走ることになるので注意。

訪問ノート

訪問日 :2018/4/28
交通手段:クルマで訪問
カメラ :DMC-TZ60

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから