264-030_苅野神社

比定社:苅野神社

式内社コード:264-030
神名帳社名 :苅野神社、カリノノ
社    格:小
所 在 地 :669-3304 兵庫県丹波市柏原町上小倉
Plus Code  :439W+95 丹波市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

国道176号線沿いの上小倉集落のはずれ山裾に鎮座。
現在の鎮座地は篠山と丹波を結ぶ街道筋(旧山陰道)に面しており東に鐘ヶ坂という難所がある。
鐘ヶ坂には明治期以降に掘られたトンネルが3本ある。
平安期は小椋庄という荘園だった。
駐車場は神社前に駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

葛原親王との関係。

写真

苅野神社を正面より望む。この階段の前は国道176号線、階段の奥の鳥居の前は旧街道筋。台風により多数の倒木があるため鳥居にはフェンスが設置してある。
苅野神社を正面より望む。この階段の前は国道176号線、階段の奥の鳥居の前は旧街道筋。台風により多数の倒木があるため鳥居にはフェンスが設置してある。
丹波市教育委員会謹製の説明書き。本殿は正徳年間の建立とある。
丹波市教育委員会謹製の説明書き。本殿は正徳年間の建立とある。
社標には式内とある。
社標には式内とある。
鳥居をくぐると階段が続く。
鳥居をくぐると階段が続く。
山門 兼 参集殿のような建物があり参道は真ん中を通っている。山の中の急斜面に建つ神社では時々ある形式。
山門 兼 参集殿のような建物があり参道は真ん中を通っている。山の中の急斜面に建つ神社では時々ある形式。
山門 兼 参集殿のような建物より拝殿を望む。
山門 兼 参集殿のような建物より拝殿を望む。
山門 兼 参集殿の内部に神社謹製由緒書がある。ご祭神は葛原親王とある。
山門 兼 参集殿の内部に神社謹製由緒書がある。ご祭神は葛原親王とある。
反対側には奉納された絵が多数。
反対側には奉納された絵が多数。
拝殿を正面より望む。端正な印象のする拝殿。
拝殿を正面より望む。端正な印象のする拝殿。
拝殿と本殿を左側より望む。本殿は拝殿よりも1段高い。山の斜面は倒木が多数ある。
拝殿と本殿を左側より望む。本殿は拝殿よりも1段高い。山の斜面は倒木が多数ある。
拝殿の右手には手水舎。
拝殿の右手には手水舎。
本殿を正面より望む。本殿の状態は良いようだ。
本殿を正面より望む。本殿の状態は良いようだ。
拝殿後方の本殿を右側から望む。彫り物と組物がたくさん施されている。
拝殿後方の本殿を右側から望む。彫り物と組物がたくさん施されている。
本殿の右側を望む。かなり大きな本殿であることが分かる。
本殿の右側を望む。かなり大きな本殿であることが分かる。
山門 兼 参集殿のような建物より鳥居を望む。
山門 兼 参集殿のような建物より鳥居を望む。
鳥居越しに正面を望む。小倉の集落が見える。
鳥居越しに正面を望む。小倉の集落が見える。

感想

氏子謹製の由緒書によると

夫当社苅野神社者 皇暦第五十代桓武帝第三皇子、荘園領主一品太宰師葛原親王を祭神とす。仁寿三年(八五三年)六十八歳薨ず。
 醍醐帝延喜五年(九〇五年)小倉村苅野神社延喜式内社に列すとあり。全国三一三一座の神名帳に記載された格式の高い神社で氏族の守護神として、字苅野田に祀る。
 長和九年(一〇一二年)小倉村大嘗会主基奉供とあり。主基とは天皇践祚に新穀を奉る悠紀主基、両斎国をいう。(御田植祭今尚現存七月一五日)
 文明三年(一四七一年)管領細川勝元は久下重元に小椋庄領家職の安堵状を授くとあり。久下地頭の下に小椋庄産土神として祀り来たりしが、天正六年一二月七日(一五八七年)丹波攻略の明智光秀金山城に陣し麓の苅野神社及び社坊悉く兵火で焼失す。
 寛文七年(一六六七年)苅野田の仮宮より現在地(カツラ山八十八番地)に造営遷宮し苅野田の跡地は古宮と称し現存す。
 正徳四年(一七一四年)本宮殿再建す。彫刻の手法は桃山、江戸初期粋を尽くした豪華佳麗な作なり。
 社家には片瀬家、社坊には真言宗高野山宝城院末の竜泉寺あり、明治維新の際社僧復飾して日置左京、片瀬権守と共に奉仕せしが、帰農し、本社祠掌の儀は柏原八幡神社祀職千種家の兼掌するところとなり今に及ぶ。
 幕藩時代は上小倉植村土佐守後水野鶴牧藩下小倉は織田山城守と知行所を異にするも、両村共同体は産土神として信仰崇敬深きものなり。
昭和五十六年記 氏子

とある

丹波市教育委員会謹製の説明書によると。

市指定文化財 苅野神社本殿 附 木槌3丁 1棟
指定年月日   平成15年10月20日
所有者・管理者 上下小倉共有財産管理組合
 苅野(かりの)神社は、延喜式内社であり、上・下小倉の鎮守社として江戸時代を通して両集落の「宮の党」という宮座によって守られてきた。
 本殿は、三間社流造で、正面に千鳥破風(ちどりはふ)、軒唐破風(のきからはふ)を付す。正面と両側面の三方には縁をまわし、脇障子を立てる。妻飾には、虹梁(こうりょう)を三段に重ね、その間に蟇股(かえるまた)と平三斗を配し、最上部は大瓶束(おおへいつか)と笈形(おいがた)とする。屋根は、当初板葺であったものが文政10年(1827)桧皮葺に葺き替えられ昭和54年に銅板葺となった。
 本殿内部からは、上棟式に便用されたと考えられる3丁の木槌が発見され、正徳4年(1714)の墨書があることから、建立年代も同年と確認できる。この木槌には「大工丹波氷上郡野山住山本金兵衛」と大工名も記されており、建立年代、大工名の判明する建築として当地方の基準となるものである。
平成16年11月
丹波市教育委員会

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、葛原親王。
長和9年(1012年)小倉村大嘗会主基進供(長和9年ではなく長和元年だと思われる)。
天正7年(1579年)明智日向守光秀の兵火のため焼亡。
寛文7年(1667年)現地に社殿を造営し遷座。
正徳4年(1714年)社殿再建、
明治6年(1873年)村社。
大正14年(1925年)神饌幣帛料供進指定。
昭和21年(1946年)造営。
江戸時代までは「苅埜宮」「苅野大明神」と呼ばれていた。
とある。

ご祭神は第五十代桓武天皇の第三皇子で葛原親王(786~853年)、荘園である小椋庄の領主だった方だ。

神社前を旧山陰道が通るのだが、当地は険しい鐘ヶ坂が難所だった。
苅野神社の旧鎮座地は、その鐘ヶ坂に近い東に1kmほど行ったところにあった(石碑が残っているらしいが未確認)。

天正年間の明智光秀の丹波攻めでは鐘ヶ坂付近の金山に山城を作ったということだ。
金山と苅野神社の旧鎮座地は1kmほどしか離れておらず焼失、その後の寛文年間に現在地へ遷座したとある。

訪問当日は2018年の台風24号で、本殿裏の木々が倒れており、危険なので片付けをしないといけないと近隣の方が仰っていた。
社域は広くないがきれいに保たれており維持管理の苦労が偲ばれる。

社殿は昭和21年(1946年)造営とあるので新しい、カチッとした作りが印象的だ。
創建時の事情が分かれば面白いと思う。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2018/10/14
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから