比定社:籠神社:丹後国一宮

式内社コード:268-010
神名帳社名 :篭神社、コノ/コモリ
社    格:名神大、月次、新嘗
所 在 地 :629-2242 京都府宮津市大垣430
plus code:H5MW+5M 宮津市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「このじんじゃ」と読む、地名の大垣は「おおがき」と読む。
国道178号線を走ると、道が少しばかりカーブした内側(山側)に鳥居があるのですぐに分かる。
山側に曲がりこめば駐車場(有料)。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境1】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩2】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索1】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

元伊勢と言われるのにふさわしい広大な社域、立派な社殿。
ちょっと神秘的な奥宮の眞名井神社は必見。

国宝(美術品)

海部氏系図
時代:平安
文化庁解説:
丹後宮津の籠【この】神社の宮司家海部氏に歴代相承の秘巻として伝来した籠名神社祝部氏系図である。
本文の体裁は竪系図の古態をよく存し、縦に継いだ料紙の中央に淡墨一線を縦に引き、線上に適宜間隔を置いて始祖以下直系の子孫のみを掲げており、その書写年代は九世紀後半と認められる。
歴代の記載は「始祖彦火明命」から「孫健振熊宿称」に至る上代、「児海部直都比」から「児海部直勲尼」に至る海部管掌時代および「児海部直伍百道祝」以降の祝部の時代に大別される。
その内容は海部氏の歴史的推移のみならず、正史に埋もれた古代地方豪族の変遷のあり方を伝えて注目され、わが国歴史上にその価値は高い。

国指定重要文化財(美術品)

丹後国府中籠神社経塚出土品
時代:平安
年代:1188
西暦:1188
文化庁解説:
一、銅経筒、二口
 ト書:文治四年在銘
一、菊花双雀鏡、一面
一、線刻如来鏡像、一面

重要文化的景観

宮津天橋立の文化的景観
文化庁解説:
 京都府の北部、丹後半島(たんごはんとう)の南東に位置する宮津湾は、東・南・西の三方を標高約150mの山地に囲まれている。湾の西部では砂礫により天(あまの)橋立(はしだて)の砂州が形成され、宮津湾(みやづわん)と阿蘇海(あそかい)とを隔てる地形となっている。このうち、宮津湾西岸から阿蘇海北岸に位置する府中(ふちゅう)地区は、標高約20mにかけて緩やかな段丘地形となっており、集落及び農地が営まれている。さらにその北部は急峻な山地地形となっており、シイ・タブ・カシ、アカマツ及びそれらを改植したスギ・ヒノキ等の樹叢が展開している。海面・海岸砂州から急に山地が立ち上がるこの独特の地形が、古くから信仰・観光の対象として人々を惹きつけてきた。
 府中地区は、古代丹後国府(たんごこくふ)の地と比定されており、国分寺跡が所在する。現在も、阿蘇海と北部山地とにはさまれた平地では、条里制(じょうりせい)に遡るとされる地割りの農地が営まれている。また、14世紀末に一色氏が丹後守護職に任命されると、その後中世を通じて、この地域の整備が進められた。16世紀の成立とされる『成相寺参詣曼荼羅(なりあいじさんけいまんだら)』には、西国三十三所霊場の成相寺に訪れる人々の姿が生き生きと描かれるほか、16世紀初頭に雪舟(せっしゅう)が描いた『天橋立図』等では、成相寺及び丹後国一宮である籠神社(このじんじゃ)の門前等に人家が密集している様子が描かれており、このころ既に当地では,中心地として機能した都市が成立していたことがわかる。
 近世に整えられた宮津城下町が、参詣の拠点として機能し始めると、府中地区はますます隆盛することとなった。江戸時代前期に描かれた『和歌浦・天橋立図屏風』には、天橋立を行き交う人々が描かれており、天橋立が参詣道として機能していたと考えられる。このほか、宮津湾・阿蘇海には多数の舟が描かれており、府中地区が多くの人々を引きつける信仰・観光の中心地として栄えたことがわかる。このころ、天橋立が日本三景の一つとして成立したとされる。
 近代になると、大正12年(1923)に天橋立が京都府立公園に指定され、昭和2年(1927)には成相電気鉄道(現天橋立鋼索鉄道、別称傘松ケーブル)が整備されるなど、観光都市としての整備が進んだ。大正13年に舞鶴―宮津間で鉄道が開通し観光客が増大すると、籠神社や大垣集落の一の宮桟橋周辺には、土産屋及び旅館等が軒を連ねる町並みが形成された。第二次世界大戦後は、海水浴・スキー・研修等を目的とした観光客が増えるなど観光形態は徐々に変容しているが、昭和39年(1964)に運輸省(当時)により国際観光ルートに指定された宮津市の中でも、当地は観光拠点の一つとして位置づけられる。
 府中地区では、生産的機能も確認される。阿蘇海と北部山地との間に展開する段丘地形では、平坦部を利用して主に水田が営まれている。国分(こくぶん)・小松・中野などの農業集落は主として旧道沿いに単列の街村形態を成しており、石積みで造成された平場に主屋・納屋・蔵・ニワ等から成る居住地を形成している。集落内の旧道に沿って石積みの水路が設けてあり、水路には各戸から接近し洗い物等を行うアライバと呼ばれる施設が備えられている。他方で、溝尻(みぞしり)など阿蘇海に面する漁業集落では、かつてキンタルイワシ(金樽鰯。金太郎鰯とも言う。)と呼ばれたマイワシ漁が盛んであり、宮津市の特産物であるオイルサーディンの缶詰に加工されて全国に流通した。溝尻では、現在も阿蘇海に面して舟屋が立ち並んでおり、主屋・インキョ・舟屋・ハマから成る独特の居住形態を継承している。
 このように、宮津天橋立の文化的景観は、中心地として機能しながら発展してきた当地の歴史的重層性を示す土地利用の在り方と、宮津湾西岸及び阿蘇海北岸で営まれる農業・漁業による土地利用の在り方とが複合した文化的景観である。日本三景の一つに数えられる著名な信仰地・景勝地であるのみならず、段丘を活かした農村及び特徴的な居住形態を示す漁村が複合した景観地として独特であることから、我が国民の生活・生業の在り方を理解する上で欠くことのできないものであり、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。

写真

籠神社を正面より望む。右の社標には與佐宮阯丹後一ノ宮とある。左の社標には元伊勢大神宮籠之宮とある。鳥居は石製の神明鳥居。
籠神社を正面より望む。右の社標には與佐宮阯丹後一ノ宮とある。左の社標には元伊勢大神宮籠之宮とある。鳥居は石製の神明鳥居。
神社謹製の由緒書。重要な名前が3つ出てくる。時代の順に、眞名井原の匏宮(よさのみや)、吉佐宮(よさのみや)、籠宮(このみや)。
神社謹製の由緒書。重要な名前が3つ出てくる。時代の順に、眞名井原の匏宮(よさのみや)、吉佐宮(よさのみや)、籠宮(このみや)。
手水舎。
手水舎。
二の鳥居(木製の神明鳥居)と楼門を望む。非常に立派で新しい。
二の鳥居(木製の神明鳥居)と楼門を望む。非常に立派で新しい。
楼門を望む。大きく重厚で立派、千木は内削ぎ、鰹木は6本。
楼門を望む。大きく重厚で立派、千木は内削ぎ、鰹木は6本。
楼門をくぐり拝殿を望む。拝殿前には、延喜式内・山陰道一之大社・丹後一宮・元伊勢・籠神社とある。山陰道一之大社とは山陰道では大社はここだけという意味。拝殿は千木は内削ぎ、鰹木は8本。
楼門をくぐり拝殿を望む。拝殿前には、延喜式内・山陰道一之大社・丹後一宮・元伊勢・籠神社とある。山陰道一之大社とは山陰道では大社はここだけという意味。拝殿は千木は内削ぎ、鰹木は8本。
拝殿を左側より望む。奥に本殿が見える。
拝殿を左側より望む。奥に本殿が見える。
拝殿より本殿を望む。非常に格式高い感じ。菊のご神紋。
拝殿より本殿を望む。非常に格式高い感じ。菊のご神紋。
本殿を右側から望む。唯一神明造り、千木は内削ぎ、鰹木は10本。
本殿を右側から望む。唯一神明造り、千木は内削ぎ、鰹木は10本。
山門前の狛犬も社殿がかかり、千木と鰹木が付いている。
山門前の狛犬も社殿がかかり、千木と鰹木が付いている。
奥宮の眞名井神社が籠神社より400mほど上がったところにある。案内板があるので迷うことは無い。
奥宮の眞名井神社が籠神社より400mほど上がったところにある。案内板があるので迷うことは無い。
社標には外宮大元宮吉佐宮とある。ちょっとややこしいが時代を追うと、眞名井原の匏宮(よさのみや)、吉佐宮(よさのみや)、現在の籠宮(このみや)と遷座している。
社標には外宮大元宮吉佐宮とある。ちょっとややこしいが時代を追うと、眞名井原の匏宮(よさのみや)、吉佐宮(よさのみや)、現在の籠宮(このみや)と遷座している。
匏宮(よさのみや)の社標。
匏宮(よさのみや)の社標。
眞名井神社の社標。
眞名井神社の社標。
眞名井神社にあった石碑。様々な呼び方、表し方があるようだ。
眞名井神社にあった石碑。様々な呼び方、表し方があるようだ。
丹波國造八十二代、元伊勢籠神社宮司、海部光彦さん謹製の真名井原縁起。ややこしいのだが籠神社の宮司は海部家が代々世襲で現在82代目、丹波國造の系統でもあるということらしい。
丹波國造八十二代、元伊勢籠神社宮司、海部光彦さん謹製の真名井原縁起。ややこしいのだが籠神社の宮司は海部家が代々世襲で現在82代目、丹波國造の系統でもあるということらしい。
眞名井神社入口を望む。狛犬ではなく狛龍。
眞名井神社入口を望む。狛犬ではなく狛龍。
眞名井神社入口の社殿は残念ながら工事中だった…。再度訪ねてみたい。
眞名井神社入口の社殿は残念ながら工事中だった…。再度訪ねてみたい。
眞名井神社本殿より鳥居を望む。
眞名井神社本殿より鳥居を望む。

感想

神社謹製の由緒書によると

籠神社(この) (古称 吉佐宮 よさのみや)
御祭神 彦火明命
相殿  豊受大神 天照大神
    海神   天水分神
 神代の昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました
 その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました それに依って當社は元伊勢と云われております
 両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました

とある。

日本遺産謹製の元伊勢籠神社奥宮 真名井神社説明書によると

元伊勢籠神社奥宮(もといせこのじんじゃおくみや) 真名井神社(まないじんじゃ)
 真名井神社は伊勢神宮の元宮であり、当社で祭られていた豊受大神(とようけおおかみ)が伊勢神宮外宮へと遷られたという。古代には吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた。本殿後ろには真名井原祭祀場と呼ばれる磐座(いわくら)があり、豊受大神や天橋立を創造した伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・その妃神、天照大神が祭られている。江戸時代の宮津藩は、丹後ちりめんの生産地であるとともに、流通の拠点として商業・港湾都市として多くの人々が訪れたといわれており、この真名井神社のある傘松下も、民謡「宮津節」にも唄われるほど賑わった。

とある。

神社謹製の眞名井神社説明書によると

眞名井神社
 豊受大神元津宮なり
 古名 匏宮 吉佐宮 与謝宮
 一云 天吉葛宮
 一云 比沼眞名井
 一云 久志浜宮
 一云 元伊勢大元宮

とある。

神社謹製の真名井原縁起によると

上古の世丹後國未だ分れず丹波と稱す 造花の霊勝天梯立眼下に建てり内は阿蘇海を抱き外は与謝海蒼々として日本海に開く 東の海中に冠島沓島神容を現し天神の示現日子日女を祀りて常世嶋とも稱す 此処東北に神体山を背負へる奇しき一劃あり則ち元初の天神降り來ませる処真井原にして今太古の磐座存す 東座は地上僅に現はると雖も生命根源の神又御饌の神とも申す豊受大神鎮まり給う 大神は宇宙の一氣発する大元のケの神にして時二月神に化し或は海神とも現じてその働き変幻す 之の神は篭宮祝部海部直の祖丹波道主王の娘八乙女が斎き祭りしとぞ伝う 瑞兆幾に応じて表はれ背後の山峡に狭霧立てば水氣根源の玄妙を思うべく真名井の水を手に結び又之の山に藤の花咲かば神霊の氣醞醸化現して芳秀現世に寄さし給ふを知る 真名井原に神氣発する時風東より西に吹くと云へり げに大神を祭る神事懿徳天皇四年甲午に始まりて古へ藤祭と稱し欽明朝以後の葵祭の濫觴たり 之に山を天香語山又藤岡山或いは比沼の真井とも云うは命名の深秘ありて其の心は御生れの神事なり 豊受大神東正中に鎮まるに対し西座に鎮まる雄大な磐座は大八州國生みの元神伊射奈岐伊射奈美二神の体にして日神此の処に所座すと云えて日之小宮と云う 伊射奈岐の神は天浮橋を樹てて磐座の女神に通い以來之の磐座を鶺鴒石とも申し岐美二神和して坐す 則ち天橋立は神人通行の梯にして古へは籠宮の境内参道と為す 神代に天上なる天真名井を挟みて日神素尊誓約して三女神五男神を産めり 其を地上に求むれば之の真名井原ならむと云う
奥に比の処両個の磐座は天地日月水火陰陽併祭の源基にして民族の霊覺の象徴大和心の発祥なり 崇神帝の御宇天照大神倭の笠縫邑より真名井原に遷移し豊受大神と同殿に鎮まり吉佐宮と申す 二神は高天原の幽契に依りて離る可からざる事一神にして二座二神にして一座の秘傳巌として籠宮に存す 是籠宮を元伊勢と申す事の元なり 中書によく天子の大社は必ず霜露風雨を受り以て天地の精氣に達せんが為なりと 真名井社今に神代の風儀を遺す 天下萬民心あらば來り詣でて世界平和を祈り灼然の霊氣に俗されん事を
 平成二年庚午旧五月五日
  丹波國八十二代
  元伊勢籠神社宮司
   海部光彦 敬白

※補足:懿徳天皇(いとくてんのう、BC510年~BC477年、諸説あり)

とある。

神社謹製の眞名井原古代祭祀場説明書によると

眞名井原古代祭祀場
 神代に天つ神が降られたこの地は眞名井原と云い、その中心となるのがこの磐座である。東座に地上僅かに現れるのが生命根源の神で、御饌の神でもある豊受大神の磐座である。西座に鎮まる磐座には大八洲国生みの神である伊射奈岐大神・伊射奈美大神がお鎮まりになる。また、この処に初生した日神の宮居を日之小宮と云う。
 東と西の磐座は、天地、日月、水火、陰陽を現し、相対する神を一対として併祭する原初の神祀りの形が縄文時代より今に続いている。西の磐座の左面は、船の舳先をしていることから神の乗り物である「天の籠船」とも「天の磐船」とも呼ばれている。
東座
 天御中主大神
 豊受大神
西座
 天照大神
 伊射奈岐大神
 伊射奈美大神

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、彦火明命、(配祀)天照大神・豐受大神・海神・天水分神
 また次の説もあるようだ。
  『丹後風土記』『丹後国式社証實考』伊弉(射)奈岐大神
  『和漢三才図絵』『丹波府志』『日本地理志料』住吉同体三神
  『丹後與謝海図誌』『籠太明神縁起秘傳』『大谷寺奏状』豊受大神
  『丹後細見録』『丹後旧事記』国常立命
  『籠神社誌』『府中村誌』大綿津見命
  『古事記伝』天水分命
垂仁天皇の時天照大神は伊勢伊須須川上へ遷宮。
雄略天皇22年(478年)豊受大神伊勢国山田原に遷座。
大化改新(645年)の後与謝宮を籠宮と改称。
養老3年(719年)奥宮眞名井神社の地から現地へ遷座。
弘化2年(1845年)造営。
明治4年(1871年)国幣中社。
江戸時代までは「元伊勢」と呼ばれていた。
「元伊勢宮丹後之国一宮・総社籠神社」を正式の名称としている。
宮司は海部穀定氏である。養老3年(719年)以降、今日にいたるまで当社の宮司として続いており、「籠神社祝部海部直氏系図」は国宝に指定されている。

とある。

個人的には、この地域はたいへん神秘的な地域だと思う。
元伊勢の伝承もあり、丹後半島をショートカットする船の陸路のお話しもあったりする不思議な地域だ。
もちろん、かつては海外への玄関口だったろうし、船が寄港する大きな港だったろうし、街道が集中する場所でもあった、古代においてはこれ以上無い交通の要衝だったと思われる。
さらに国府が置かれた重要な場所でもある。
また、山にも近く鉱物資源についても手に入れやすかった場所だ。
まずはそういったことが背景になっていることは間違いないと思う。

当地で有名なのは、やはり天橋立(あまのはしだて)だろう。
真名井原縁起には「天橋立は神人通行の梯にして古へは籠宮の境内参道と為す」とある。
つまり、天橋立が籠神社の参道であるということだ。
なな、なんと、そういうことだったのか、と感じ入った次第である。
天橋立には様々なお話が伝わるが、これはこれでさもありなんというお話だ。

籠神社は元伊勢のひとつとなっている神社。
正確に言うと、籠神社の奥宮である眞名井神社が元伊勢のひとつとなっている。
元伊勢とは、現在の神宮(伊勢神宮の内宮・外宮)の神様が元々鎮座されていたとされる場所のこと。

元伊勢と言っても、天照大御神(現在の神宮内宮)と豊受大御神(現在の神宮外宮)のふたつがある。
それぞれ遷宮した時代が異なり、天照大御神は第10代崇神天皇の時代、豊受大御神は第21代雄略天皇の時代となる。
さらに遷幸、つまり移動を続けたので、それぞれの地に留まったということもある。

それが籠神社の奥宮である眞名井神社であるということだ。
眞名井神社は元伊勢(内宮)の候補のひとつとされている。
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の巡歴した吉佐宮の次の4つの候補地のひとつ。
・真名井神社(京都府宮津市江尻、籠神社摂社)
・皇大神社(京都府福知山市大江町)
・笶原神社(京都府舞鶴市紺屋)
・竹野神社(京都府京丹後市丹後町)

個人的に興味深いのは、籠神社の宮司を世襲している海部氏(あまべうじ)のことだ。
勉強不足で詳しくはないが、古代よりこの地域を治めるのに重要な役割を果たしてきたのだろう。
京丹後市久美浜町海士(あま)には神服連海部直の館があったと伝わる。
その海部氏系図は国宝(美術品)に指定されている。

籠神社へのアプローチは分かりやすい。
国道178号線を走ると、道が少しばかりカーブした内側(山側)に鳥居があるのですぐに分かる。
そこを山側に曲がりこめば駐車場(有料)だ。

社域は広大でカチッとしている、カチッとしすぎているくらいだ。
下乗の印がある一の鳥居(石製の神明鳥居)をくぐると参道が真っすぐ延びている。
二の鳥居(木製の神明鳥居)をくぐり山門までは石とコンクリートで地表が覆われている。
山門は内削ぎで鰹木が6本、大変立派で重厚。
拝殿は内削ぎで鰹木が8本、萱葺で派手さはないがこれまた重厚な造り。
本殿は内削ぎで鰹木が10本、唯一神明造で近くまで行けないのが残念。
菊のご神紋が印象的だ。

一旦籠神社の北東の出入り口を出て、籠神社の奥宮である眞名井神社へ向かう。
東へ150メートルほど歩くと左(北)に鳥居が見えてくる。
鳥居をくぐり、さらに200メートルほど歩くと籠神社の奥宮である眞名井神社へ到着。
こちらにも駐車場はあるが、籠神社に駐車して歩くのが良いだろう。
狛犬ならぬ狛龍に出迎えられて二の鳥居をくぐると社殿が見えてくる。
訪問時はあいにく改修工事中で社殿も磐座も見ることができなかった…。
これは再度訪問しないといけない(こうしたことは時々ある)。
鬱蒼とした社域で、いかにも真名井原祭祀場といった趣、神々はやはり山が好きなんだと実感する。
少々歩くので歩きやすい靴が良いだろう。

名神大一之宮で元伊勢・眞名井神社を摂社とする神社。

注意点

奥宮の眞名井神社まで行くのであれば歩きやすい靴が良い。

訪問ノート

訪問日 :2018/8/29
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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