比定社:久久比神社
式内社コード:276-080
神名帳社名 :久久比神社、ククヒノ
社 格:小
所 在 地 :668-0813 兵庫県豊岡市下宮318-2
Plus Code :HR4V+WC 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「くくひじんじゃ」と読む、地名の下宮は「しものみや」と読む。
下宮集落の中央の山裾に鎮座。
国道178号線と国道312号線が交わる下宮地蔵東の交差点より北へ旧道へ入ってすぐ。
非常に分かりやすい場所にある。
駐車場完備。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
国指定重要文化財の本殿とその彫刻。
素朴な社域。
国指定重要文化財(建造物)
久久比神社本殿
時代:室町後期
年代:永正4
西暦:1507
文化庁解説:
三間社流造で室町時代末期の建立になる。蟇股を多く用い、妻飾を二重虹梁太瓶束の制にするなど社殿建築としては割合にぎやかな意匠である。
写真
感想
神社謹製の久久比神社略記によると
国指定 重要文化財
式内社 豊岡市下宮
久久比神社(くくひ)
略 記
久久比神社は延喜神名式に記される但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、もと胸形(むなかた、宗像)大明神と称され、木の神 久久能智命(くくのちのおみこと)を奉祀した式内社であるが、神社の創立年代は詳らかではない。一説には多紀理比売命(たぎりひめのみこと)・天湯河板拳命(あめのゆかわたなのみこと)を祀ると言われる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の 三社がある。
本殿は墨書によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知られ、三間社流造り・杮葺(こけらぶき)の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代中期の代表的様式を示している。社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊(しべ)の桐が彫刻されている。さらに斗(ます)・肘木(ひじき)・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、その道の推賞のまとである。
久久比神社の鎮座する下宮は昔より鵠(くくい:コウノトリの古称)村と言われていたように、古来より国の特別天然記念物「コウノトリ」が数多く大空を舞っていた地域であり、日本書紀によれば天湯河拳命がこの地で「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。
とある。
神社謹製のコウノトリ伝説によると
コウノトリ伝説
日本書紀によれば垂仁天皇の御宇二十三年の冬十月、天皇が誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)をともない宮殿の前に立たれた時、鵠(くくい、コウノトリの古称)が大空を鳴きながら飛んでいった。その時、皇子が「これは何んという名の鳥だ」とお問になったので、天皇は大変に喜ばれ、家来の者に、「誰かあの鳥を捕まえて献上しなさい。」とおっしゃいました。
天湯河板拳(あめのゆかわたな)が「わたしが必ず捕らえて献上します」と申し出て、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国で捕らえたとも言われる。但馬国で捕らえたとも言われる。コウノトリを捕らえ、献上したのである。その時に皇子は三十歳であったが、まだ言葉を話すことができず、まるで赤ん坊の鳴き声のような声しか出なかったが、この日初めて人並みの言葉をお話になられたのである。
このようにコウノトリは霊鳥(れいちょう)なのでその棲んでいる土地を久久比(くくひ)と呼び、その後にこの土地に神社を建て、木の神「久久遅命(くくちのみこと)」をおまつりした。これが久久比神社の始まりであった。
ところで、その頃の豊岡盆地は「黄沼前海(きめさきのうみ)」といって入江であった。下宮はその入り江の汀(なぎさ)であった。また、そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座(ま)す景勝の地であった。私たちの先人がこの自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久久遅命」を奉斎し、その御神徳の宏大にしたのも当然であろう。
とある。
神社謹製の由緒によると
式内社 久々比神社 豊岡市下宮字谷口鎮座
祭神 久々遅命 一説には日本書紀によって天湯河板拳命を祀るという
相殿の神 大国主命 多紀理比売命
由緒
コウノトリ伝説と同一のため省略
沿革
この神社の創建は前述のように古く久々比の地に始まり既に延喜(えんぎ)の朝(ちょう、西暦九二七)に編集された延喜式に式内社(しきないしゃ)として列記せられている。明治六年十月には村社となり大正九年六月には神饌幣帛供進(しんせんへいはくぐしん)指定の神社となるなど由緒(ゆいしょ)の古社(こしゃ)である。その奇(く)しき御神徳は今に変わらず地方人の崇敬(すうけい)は益々篤(あつ)い。口碑(こうひ)によれば当地下宮には大国主命を祀る上ノ宮(元敷井谷鎮座)と多紀理比売命(たぎりひめのみこと)を祀る下ノ宮(元の田中大明神)との二社があったがいつの頃にかこの二社を久々比神社合祀して三間社流造(さんけんしゃながれづくり)という壮麗(そうれい)な社殿を造営した。その後年月は移り元禄十五年十一月一日釿始(ちょうのはじめ)同十六年三月十六日御遷宮(ごせんぐう)、この際の施工は解体移築であったので現在まで室町時代の遺構(いこう)の趣(おもむき)を存しその故を以て昭和三十三年五月には重要文化財の指定を受けたのである。このすぐれた工を成就した巨匠(きょうしょう)は実に当村の住人小畠勘右衛門であった。社殿の全容は正(まさ)に秀麗 更に斗栱(ますぐみ)、肘木(ひじき)、龍鳳像獅(りゅうほうぞうし)の彫刻さては蟇股(かえるまた)などその道の推称(すいしょう)のまとである。
社殿
本殿 杮葺(こけらぶき)トタン被三間社流造 十坪五合
元禄十六年三月 再営成就
正徳元年九月奉納棟札
昭和三十三年五月重要文化財指定
拝殿 瓦葺入母屋造(いりもやづくり) 六坪
昭和九年十月増築上棟
とある。
神社謹製の久久比神社本殿略記によると
重要文化財(建造物)久久比神社本殿略記
昭和三十三年五月十四日指定
三間社流造り こけら葺き
久久比神社(くくひじんじゃ)は延喜神名式(えんぎじんめいしき)に記(しる)される但馬国城崎郡廿一座(たじまのくにきのさきこおりにじゅういちざ)のうちの小社(しょうしゃ)で、もと胸形(むなかた、宗像)大明神(だいみょうじん)と称され、木の神久久遅命(くくのちのみこと)を奉祀(ほうし)した式内社(しきないしゃ)であるが、神社の創立年代は詳(あき)らかではない。一説には天湯河板拳命(あめのゆかわたなのみこと)を祀ると言われる。この度解体(かいたい)修理(昭和四十六年一月一日より昭和四十七年三月三十日一日)により現在の本殿(ほんでん)は、背面(はいめん)西の間から発見された墨書(ぼくしょ)「永世二年丁卯三月一日□けんと名人作也」によって永正(えいしょう)四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知られ、三間社流造(さんげんしゃながれづく)りこけら葺(ぶき)の構成形式で建物の構造細部技法(こうぞうさいぶぎほう)、絵様刳型(えようさくがた)等も、室町時代中期の代表的形式を示している。
特に蟇股(かえるまた)の彫刻(ちょうこく)が優(すぐ)れ、東西両側の正面よりの蟇股(かえるまた)には三つの蕊(しべ)の桐(きり)が彫刻(ちょうこく)されている。棟(むな)札および墨書(ぼくしょ)によると元禄(げんろく)元年(一七一二年)にも修理が行われている。
近時の修理としては 昭和九年に屋根替(がえ)えがあり 昭和二十三年にはこけら葺(ぶき)の上亜鉛引鉄板(あえんびきてっぱん)を葺(ふ)き重(かさ)ねた応急修理をしていた。
(解体(かいたい)修理の大要)
一、礎石(そせき)は一旦掘起(ほりおこ)し破損(はそん)しているものは取替(とりかえ)、コンクリート打の上え旧位置(きゅういち)に据(す)え直(なお)し根巻(ねま)きコンクリリート補強(ほきょう)が施された。
二、古材は極力再用し旧部材(きゅうぶざい)は原則として旧位置(きゅういち)に戻された。
三、総(す)べて木材には防腐処理(ぼうふしょり)と蟻害(ありがい)の予防処理が施された。
四、各新補材(かくしんほざい)は、欅(けやき)・桧(ひのき)等を使用し、それぞれ修理の年が烙印(らくいん)された。
五、亜鉛引鉄板葺(あえんぶきてっぱんぶき)の屋根(やね)がこけら葺に復元された。
六、飾金具(かざいかなぐ)は材料・工法共に残存のものに倣(なら)い不足分は新しく補い損傷している部分は補修された。
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、久久遅命。
創建は不明(追加)。
永正4年(1507年)造営。
元禄元年(1688年)本殿修復(追加)。
元禄15年(1702年)本殿修復。
正徳元年(1711年)本殿修理。
明治6年(1873年)村社。
大正9年(1920年)神饌幣帛供進社(追加)。
昭和9年(1934年)屋根替、拝殿増築(追加)。
昭和23年(1948年)屋根修理(追加)。
昭和33年(1958年)重要文化財指定(追加)。
昭和46年(1971年)~昭和47年(1972年)本殿修理(追加)。
江戸時代までは「宗像大明神」と呼ばれていた。
日本で唯一、コウノトリに縁のある神社。コウノトリの親鳥とひなを描いた絵馬が多く奉納されている。
日本書紀によれば崇仁天皇23年、天湯河板挙命に勅して鵠(こうのとり)を捕えさせようとした。そこで鵠の飛ぶ方を追つて出雲国で捕えたと、但馬国で捕えたともいい、天湯河板挙命が鳥取造の姓を賜つたのはこの功績によるものだとされる。このことにより鵠にちなんで久久比神社の名となった。
とある。
式内社がある場所というのは古代より開けた場所だったことが多い。
これが現代の感覚と大いに異なるので先入観を持たずに見ることが大切だと思う。
久久比神社の鎮座する当地もまた古くから開けた場所で周囲にたくさんの古墳と遺跡がある、一部を以下に挙げてみる。
宮ノ谷古墳、久々井坂古墳、稲場古墳、坂本西谷墓、千原古墳、鎌田古墳、
宮ノ谷遺跡、下宮遺跡、坂本西谷遺跡、鉾立遺跡
また下宮という地域は非常に大きく当地を含み国道178号線・国道312号線をそのまま東へ進み丹後との境界である河梨峠あたりまでがその範囲となっている。
つまり、東にある丹後国・熊野郡と接する地域となっており街道筋が久久比神社の前を通っている。
北南は円山川の水運、東は丹後国・熊野郡、西は円山川対岸が豊岡、大いに交通の要衝だったことが分かる。
久久比神社の現在のご祭神は久久遅命である。
神社謹製の由緒によると、下宮には上ノ宮(大国主命)と下ノ宮(多紀理比売命)があったということだが詳細は不明。
現在では、相殿として大国主命・多紀理比売命が祀られているようだ。
また、神社謹製の由緒にある天湯河板拳命は、地域的に近くの和奈美神社(天湯河板挙命)や中嶋神社(天湯河棚神)にも祀られている。
江戸時代までは宗像大明神と呼ばれていたようだが本殿にかかる扁額には胸形大明神とある。
これは相殿神の多紀理比売命の影響だろうか、気になるところ。
久久比神社へのアプローチは分かりやすい。
国道178号線と国道312号線が交わる下宮地蔵東の交差点より北へ旧道へ入ってすぐ、非常に分かりやすい場所にある。
ありがたいことに駐車場完備。
クルマでは旧道より下宮川にかかる朱色の久々橋を渡り社域に入る。
渡ってすぐ鳥居の前を左へ入ると駐車場となっている。
素朴だが非常によく整備された参道を進むと二の鳥居、さらに山門があり通り抜けると拝殿がある。
拝殿は昭和9年(1934年)に増築されたもの、質素な作りだが非常にきれいに保たれている。
拝殿の後ろにある本殿は非常に大きく立派なもの。
本殿は永正4年(1507年)に建築され国指定重要文化財(建造物)に指定されている。
何度も修復され状態は非常に良い、とても大事にされている様子がよく分かる。
由緒書によると本殿を作ったのは「当村の住人小畠勘右衛門」とあり、非常に珍しいことだ。
宮大工や彫刻師を外部より招いて建築することが多い。
本殿の建築自体もさることながら彫刻が立体的で素晴らしい、一見の価値がある。
真夏の一番暑い時間帯に訪問させていただいたが、暑さを忘れて見入ってしまった。
本殿に設置された提灯に昼間でも灯が入っていたのが印象的。
後世へ長く伝えたい神社だと思った。
コウノトリの名前を持つ重要文化財の神社。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日 :2021/7/3
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。