271-010_(論)熊野神社(京丹後市久美浜町)

比定社:(論)熊野神社(京丹後市久美浜町)

式内社コード:271-010
神名帳社名:熊野神社、クマノノ
社格:小
所在地:629-3410 京都府京丹後市久美浜町甲山
plus code:JW76+4F 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

地名の甲山は「こうやま」と読む。
久美浜湾に面した兜山の頂上に鎮座。
クルマでは山頂まで林道が通じており非常に楽に行ける。
林道は狭小のため走行には注意が必要、季節ごとの指示に従うこと。
周辺に駐車可能。

ハイライト

絶景の兜山の頂上に鎮座しているところ。

写真

雪の降る季節に訪問したので兜山頂上へ通じる林道は積雪と凍結だった。四輪駆動車で訪問した。
雪の降る季節に訪問したので兜山頂上へ通じる林道は積雪と凍結だった。四輪駆動車で訪問した。
ゲートは倒れてしまっているがココまで(お堂のあるところ)はクルマで登れる。季節ごとの指示に従うこと。
ゲートは倒れてしまっているがココまで(お堂のあるところ)はクルマで登れる。季節ごとの指示に従うこと。
クルマを駐車したお堂のある場所から頂上までは片道1kmほどある。雪の中をひたすら登る…。
クルマを駐車したお堂のある場所から頂上までは片道1kmほどある。雪の中をひたすら登る…。
かぶと山園地の地図。雪が深かったので人喰岩には行かず。
かぶと山園地の地図。雪が深かったので人喰岩には行かず。
熊野神社にやっと到着。
熊野神社にやっと到着。
右側(北)を望む。すぐそこが展望台。
右側(北)を望む。すぐそこが展望台。
左側(南)を望む。登ってきた道、場所により積雪があったり溶けてたり。雪のない季節ならココまでクルマで上がって来れるはず。
左側(南)を望む。登ってきた道、場所により積雪があったり溶けてたり。雪のない季節ならココまでクルマで上がって来れるはず。
熊野神社を正面より望む。社殿は東を向いている。
熊野神社を正面より望む。社殿は東を向いている。
京丹後市教育委員会謹製の由緒書。『延喜式』神名帳に記載、熊野郡の名称の由来になった、山全体が信仰の対象、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立とある。
京丹後市教育委員会謹製の由緒書。『延喜式』神名帳に記載、熊野郡の名称の由来になった、山全体が信仰の対象、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立とある。
覆屋内部の本殿を望む。獣よけのアミアミで囲ってある。
覆屋内部の本殿を望む。獣よけのアミアミで囲ってある。
アミアミを開けさせていただき参拝した。昭和2年の丹後震災により被害を受け再建されたものと思われるので新しく状態は非常に良い。
アミアミを開けさせていただき参拝した。昭和2年の丹後震災により被害を受け再建されたものと思われるので新しく状態は非常に良い。
覆屋内にあった英語の由緒書。表にある由緒書をそのまま訳したものだが、海外の方には非常に役に立つ。
覆屋内にあった英語の由緒書。表にある由緒書をそのまま訳したものだが、海外の方には非常に役に立つ。
本殿より正面を望む。現在木々が茂り見えないが、かつては何が見えていたのだろう。
本殿より正面を望む。現在木々が茂り見えないが、かつては何が見えていたのだろう。
すぐ横にある展望台。兜山・甲山・神山と様々な表現がある。
すぐ横にある展望台。兜山・甲山・神山と様々な表現がある。
京都府選定文化的景観とある。
京都府選定文化的景観とある。
展望台より北を望む。当たり前だが久美浜湾は地図の通りの形をしている。
展望台より北を望む。当たり前だが久美浜湾は地図の通りの形をしている。
雪の中をクルマを駐車したお堂のところまで降りてきた。下りは滑って踏ん張るので足がブルブルになってしまった。くれぐれも林道は季節ごとの指示に従うこと。
雪の中をクルマを駐車したお堂のところまで降りてきた。下りは滑って踏ん張るので足がブルブルになってしまった。くれぐれも林道は季節ごとの指示に従うこと。

感想

延喜式神名帳の山陰道・丹後国・熊野郡「熊野神社」の論社3つのうちのひとつ。

京丹後市教育委員会謹製の由緒書によると

熊野神社(くまのじんじゃ)
 熊野神社は、『延喜式』神名帳に記載され、熊野郡の名称の由来にもなった神社と伝えられています。
平安時代の歴史書『日本三代実録』貞観十年(八六八)九月二十一日条に「丹後国正六位上熊野神」に「従五位下」を授ける記事があり、これは当社のことと思われます。
そもそも鎮座している甲山には祭祀遺跡もあり、「甲山」は「神山」が転じたものという説もあることから、山全体が信仰の対象となっていたのではないかと考えられています。
『丹後旧事記』など江戸時代の地誌類には、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立と伝えられています。
また『熊野郡誌』には、養蚕農家が境内の小石を借り受け、家に祀るとネズミの害を逃れるという風習があったことが記されています。
 現在の社殿の建立年代は不詳ですが、昭和二年(一九二七)の丹後大震災により被害を受け上屋を再建した際の棟札が残されています。
京丹後市教育委員会

とある

以下の内容が伝わる。
ご祭神は、伊邪那美命。
崇神天皇の御代、四通將軍の一人、丹波通主命は、丹波(たにわ)川上の豪族、河上の麻須の郎女を娶り五女を挙げたが、子女長じては皆垂仁天皇の皇妃となったのを祝ってこの神を勸請した、社殿は河上麻須の造立である。
江戸時代までは「熊野権現」と呼ばれていた。
※補足:崇神天皇、BC97年~BC30年(諸説あります)

熊野神社に関しては、兜山の麓に鎮座する丸田神社との関係がある。
熊野神社が奥宮、丸田神社(人喰岩を磐座として拝する)が里宮とされる。
また、兜山の東側には雲晴神社(くんばらじんじゃ)が鎮座し、熊野神社はその境外摂社となっているということだ。
では、丸田神社と雲晴神社の関係はどのようなものなのだろうか、ここは不明だ。

熊野神社は、熊野郡の総社であるというお話もあり、熊野郡の名前の由来ともなっていると言われる。
総社であるなら境外摂社というのは違和感がある(個人的見解です)。

個人的にはどの熊野の神様を勧請したのかということも気になる。
つまり、出雲の熊野大社なのか、紀伊の熊野本宮大社なのか、ということだ(現在両社の関係はハッキリしていないようだ)。
地域的な繋がりとしては、出雲の熊野大社が近しいような気がするのだが、事実はどうなのだろう。
謎は深い…。

兜山に登る道筋は展望台まで登ることが可能だが、狭い林道となっており季節季節の指示に従うこと。
頂上の展望台のすぐ横に社殿がある。

覆屋に入った本殿は、昭和2年の丹後震災により被害を受け、その時に再建されたものと思われ状態は良い。
英語の説明書きがあり、京丹後市教育委員会謹製の由緒書の英訳となっている、これは良いと思う。

かつて徒歩で登るしか無かった兜山の頂上に神様を勧請し、社殿を作る本当の理由はなんだったのだろうか。

注意点

頂上まで続く林道は狭いので注意。
季節ごとの指示に従うこと。

訪問ノート

訪問日:2022/1/16
交通手段:クルマで訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM、RX100M3