315-010_御坂神社(三木市志染町)

比定社:御坂神社(三木市志染町)

式内社コード:315-010
神名帳社名 :御坂神社、ミサカノ
社    格:小
所 在 地 :673-0516 兵庫県三木市志染町御坂243
Plus Code  :Q3R4+HJ 三木市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「みさかじんじゃ」と読む、地名の志染町御坂は「しじみちょうみさか」と読む。
志染町御坂の集落の東端の志染川のほとりの平地に鎮座。
兵庫県道38号三木三田線と兵庫県道85号神戸加東線が交わる御坂東の交差点にあるのですぐに分かる。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

志染川と淡河川の合流点に鎮座するところ。

写真

御坂神社を正面より望む。近隣の方が通りすがりに参拝されていたのが印象的、地域に大事にされている様子が伝わってくる。鳥居左脇に「御坂社」、右に「式内神社」の石標がある。
御坂神社を正面より望む。近隣の方が通りすがりに参拝されていたのが印象的、地域に大事にされている様子が伝わってくる。鳥居左脇に「御坂社」、右に「式内神社」の石標がある。
右側(東)を望む。この道がかつての街道だったのだろう。ありがたいことに神社前に5台ほど停めれる駐車場完備。
右側(東)を望む。この道がかつての街道だったのだろう。ありがたいことに神社前に5台ほど停めれる駐車場完備。
正面(南)を望む。この先は志染川となっていて、かつては川より参拝してたのかもしれない。
正面(南)を望む。この先は志染川となっていて、かつては川より参拝してたのかもしれない。
左側(西)を望む。周囲は人家が多い。
左側(西)を望む。周囲は人家が多い。
鳥居をくぐると正面に石段その上に能舞台、右手に手水舎がある。
鳥居をくぐると正面に石段その上に能舞台、右手に手水舎がある。
手水舎。
手水舎。
石段を登ると能舞台の後ろ側、通路が作ってある。
石段を登ると能舞台の後ろ側、通路が作ってある。
能舞台入り口の右側の様子、なにやら展示してある。
能舞台入り口の右側の様子、なにやら展示してある。
能舞台入り口の左側の様子、舞台は養生してある。能舞台は拝殿に対して正確に正対する形で作られているのが珍しい。
能舞台入り口の左側の様子、舞台は養生してある。能舞台は拝殿に対して正確に正対する形で作られているのが珍しい。
拝殿前の広場より拝殿を望む。拝殿左側の古木が印象的。
拝殿前の広場より拝殿を望む。拝殿左側の古木が印象的。
広場の左側より拝殿を望む。
広場の左側より拝殿を望む。
拝殿前の広場の右手には社務所がある。
拝殿前の広場の右手には社務所がある。
広場の左側は大きなスペースとなっていて祭りはここで行われるのだろう。社域はきれいに保たれていて非常に気持ち良い。
広場の左側は大きなスペースとなっていて祭りはここで行われるのだろう。社域はきれいに保たれていて非常に気持ち良い。
拝殿を正面より望む。とても立派な拝殿となっていて状態も良い。拝殿前の石灯籠には宝暦十三年(1763年)とある。
拝殿を正面より望む。とても立派な拝殿となっていて状態も良い。拝殿前の石灯籠には宝暦十三年(1763年)とある。
拝殿内部を望む。
拝殿内部を望む。
拝殿後方の本殿を右側より望む。本殿も状態は良いようだ。
拝殿後方の本殿を右側より望む。本殿も状態は良いようだ。
能舞台から鳥居を望む。かつては鳥居の向こうの志染川で船で参拝していたのだろうか。
能舞台から鳥居を望む。かつては鳥居の向こうの志染川で船で参拝していたのだろうか。

感想


御坂神社のWebサイトによると

【御祭神】
「大物主神」は大国主神の別名である。その神名の示す通り、物の豊かさを身に体し給う神であり、この御神徳も物の豊かさに発揚する。なんといっても、大物主神は別名大黒様である。頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持って米俵を踏まえている福徳円満な神として知られている。

「葦原志男神」も大国主神の別名である。アシハラは豊葦原瑞穂国(トヨアシハラミヅホノクニ)の葦原で日本の国の意。シコは頑健頑丈な、たくましくて志気旺盛さをあらわす古語である。葦原志男神には多くの異母兄弟があり、その異母兄弟はみなこころよからぬ神で、ことごとにこの神に抗した。度重なる迫害を受けながらその迫害を克服し、スサノヲの命により、「お前こそ国を主宰する大国の主となり、現世界に恩恵を与える宇都志国魂(ウツシクニタマ)になれ」と、娘の須勢理比売(スセリヒメ)を賜り、遂に出雲の国の太守となり、国土経営をなしとげたと、古事記、日本書紀はその伝記を詳細に記述している。葦原志男神は神名の由以、またここにある。

「八戸掛須御諸神」は御諸は御室であり、八戸掛須八方堅固な戸を掛ける意で、四方八方を堅固にかためた御室に鎮まります神との神名であって、この神も大国主の別名であるとしている。国づくりなし、治め給うこの葦原のみづほの国を平和裏に天照大神に譲り給い、身は出雲の大社にあり給う分霊を勧請して斎きまつるのがこの御坂社である

【御坂社(御坂神社)の由緒】
延喜式神名帳に「美嚢群(ミナギノゴオリ)一座御坂神社」とある。その延喜式内神社は当社とされている。
延喜式内神社とは、延喜式の神名帳に登載せられた神社をいうのであって、三木市美嚢郡(吉川町)に唯一座当神社が登載されている。
当神社については、播磨風土記にも「志染の里三坂にます神八戸掛須御諸神は、大物主、葦原志男命の国堅めたまひし以後に天より三坂峯(ミサカミネ)に下り給ひき」とあり、人皇第17代履中(リチュウ)天皇がこの神社にご参拝になったことも播磨風土記に記されている。
以後天正年間、羽柴秀吉が中国討伐の途次、三木の別所長治居城釜山攻めを行い、その際兵火にかかり焼失し、古記録一切烏有に帰したことが記録に残されていたということも、今はその記録を見ることが出来ない。

 明治六年郷社に列せられ、大正三年四月神餞幣帛供進指定神社に遇せられて祈年祭、例祭、新嘗祭には郡長又は村長が幣帛供進使にたって随員を伴い、衣冠の装束を着して幣帛(神の供物)を供進したが終戦となり、その制もなくなり、現在宗教法人の護持運営の神社となった。 その昔十七代履中天皇が当神社にご参拝になり、「この川の流れは大変美しい」といわれたことからこの地域を美嚢群(ミナギノゴオリ)というようになり、また御食膳に「しじみ貝」が這いあがったというところから、この地をしじみというようになったと播磨風土記は語っているが、履中天皇の御在位は皇紀1060~1065、現在より逆算すれば1600年前に鎮座なしなる当神社は、今志染の里の氏神として、また拓けゆく緑ヶ丘町、自由が丘町、青山町の産土神(ウブスナガミ-その町の神)として、鎮守さま(その土地とそこにすむ人の守り神)として神しづまりますのである。

とある


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、八戸掛須御諸命・(配祀)大物主命・葦原志許男命。

17代履中天皇(400~405年)が当社に御参拝。
天正年間(1573~1592年)秀吉の三木釜山城攻め兵焚で社殿焼失。
その後、細目甲に遷座。
慶長13年(1608年)今の地に遽座。
明治6年(1873年)11月郷社、
大正3年(1914年)4月神饌幣帛供進社に指定。

往古は当庄内志染中村に鎭座。
播磨風土記に記載された三坂峯に降り給われた神々を奉齋された神社で、許曽の社であると伝える。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:八戸桂須御諸神(ヤトカカスミモロノカミ)
配祀神:葦原志許男神(アシハラシコオノカミ)・大物主神(オホモノヌシノカミ)

由 緒:
 創立年不詳。
 延喜の神名帳に、播磨国五十座のうち美嚢郡一座御阪社と登載されている。
 播磨風土記にも、延喜式内神社と銘記されている(中略)もと志染の志染中という里に鎮座せられていたが、天正年間(1573~1591)、秀吉の中国征伐の金次三木釜山城攻めに兵火にかかり、社殿記録一切烏有に帰したので、佃目の里に遷し奉り、慶長4年更に志染川の上流、淡河川、山田川の落ち合いの清浄な今の地に勧請奉りし、という由緒も伝えられている。
 また第17代履中天皇が当社に御参拝ありしことも、播磨風土記に記録している。
 明治6年(1873)、郷社に列せられる。

とある。


御坂神社のある当地は、読み方の難しい志染川(しじみがわ)と淡河川(おうごがわ)の合流点にあたる場所、2つの谷筋が合流する場所に鎮座する。
志染川は西へ行けば美嚢川となり加古川に合流し、街道や水運においては非常に便利な場所だったと思われる。
東に直線で4.5kmほどに丹生山(標高515メートル)があり文字通り水銀が産出されたのだろうと想像できる。
また、当地は億計王・弘計王が身を隠した先が与謝・明石・志染となっていてその中のひとつとされている。
与謝は、268-140_(論)須津彦神社(宮津市須津)\268-140_(論)須津彦神社(宮津市須津)を参照。
水銀が採れ王族が身を隠した地域ということから考えると、重要な地域だったが隠れやすい場所だったのだろうか。
三木市志染町御坂だけでも
法鑑遺跡・法鑑土師器窯・御坂南大原遺跡・御坂黒岩前遺跡・老谷1~4号墳丘墓・老谷遺跡・御坂遺跡(兵庫県考古博物館資料による)
があるが、三木市志染町全体ではさらに多くの遺跡等が存在し興味深い地域だ。
この地域は古代から開けた地域だったのだろうと想像できる。

御坂神社のご祭神は、八戸掛須御諸命・(配祀)大物主命・葦原志許男命。
3柱とも大国主神(おおくにぬしのかみ)のこととされている。
ちなみに大国主神は下記のように非常にたくさんの別名を持っているとされ謎が深い神様だ。
大穴牟遅神、於保奈牟知、大穴道、大汝、オオアナムチ、国作大己貴命、八千矛神、葦原醜男、大物主神、宇都志国玉神、大国魂神、伊和大神、所造天下大神、地津主大己貴神、国作大己貴神、幽世大神、幽冥主宰大神、杵築大神 等がある。
なぜ同一神を別名で同時に祀っているのか?、正確なところは分からないが少し異なる見方をしないといけないのかもしれない。
事績に対する神の名なのか、時代ごとに異なる神の名なのか、それとも元は別の神だったのか、こういうところも古代史は面白いと思う。

御坂神社は元々、志染中村に鎭座しており天正年間(1573~1592年)秀吉の三木釜山城攻めで焼失とある。
少なくても天正年間には社を持った立派な神社であったことが分かる。
その後、遷座しさらに慶長13年(1608年)現在地へ遷座となったということだ(現在までに2回の遷座)。

御坂神社へのアプローチは分かりやすい。
兵庫県道38号三木三田線と兵庫県道85号神戸加東線が交わる御坂東の交差点にある。
現在の御坂東交差点はバイパスになっているが旧道は神社の前を通っている。
ありがたいことに神社前には5台分の駐車場がある。

御坂神社は南面しており鳥居は旧街道沿いにあるが参道が南へ続いていたという痕跡は無い(川までは続いている)。
かつては志染川より神社に参拝していたのかもしれない。
鳥居脇には左に「御坂社」、右に「式内神社」の石標がある、鳥居には「式内 御坂神社」の扁額がかかる。
鳥居をくぐると正面に石段、右手に手水舎、石段の上には拝殿との間に能舞台がある。
能舞台は拝殿に正対する配置となっている、つまり能舞台の後方から入る形となる。
能舞台のある神社は数は少ないとは思うが拝殿に正対している配置は珍しい、拝殿とは少しズレているか社域の端に配置されていることが多い。
能舞台を回り込むと拝殿前の広場、広い広場となっており右手には社務所、左手には大きな空間が広がっている。
拝殿前の石灯籠は宝暦十三年(1763年)とある。
拝殿、本殿ともには大きく立派で状態も良い、拝殿脇の古木が非常に印象的だ。
拝殿、本殿とも記録が無いのでいつの建築かは不明、拝殿内部はきれいに整頓されている。
社域は非常にきれいに保たれており、近隣の人々が手を合わせる姿も見られ地域に非常に大事にされていることがよく分かる。
呼び名の異なる大国主神3柱をご祭神とする神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/4/19
交通手段:クルマで訪問
カメラ :EOS80D + TAMRON 10-24mm F/3.5-4.5 Di II VC HLD B023

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから